信者になりたてのころ、次の聖句が気になっていた。
Ⅰコリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
キリスト者になるということは、イエス・キリストへの全面的降伏、ギブアップが必須である。
キリスト者になるまでは、やはり、自分が中心にいて、イエスを観察している感じ。
聖書を読み進めるうちに、だんだんと自分に自信がなくなってきて、イエスの大きさが分かり始める。それでも、戦い続けるが、かなわぬ相手と知り、心の底からギブアップする。
すると、急に心が軽くなり、神の傘下に入らせていただいたと知る。
つまり、自分は、大したことない存在だということを、思い知ることがクリスチャンになる前提なのだろう。
聖句にあるように、「弱い者。取るに足りない者。見下されている者。無に等しいもの。」を神は選ばれた。初期のキリスト信者のほとんどは、このような当時のローマ社会の底辺の人々や差別されている人々で占められていたという。
当時の彼らは、おそらく最初から、自分が「取るに足りない者」と自覚していて、自分は、「生きていても全く希望がない」と思っていたところに、神の光がさす。
一方、私は、自らをある程度の人間と思っていたのだが、それがそうではないと、イエスに気づかされ、「取るに足りない者。無に等しいもの。」と知らされる。
神の前では、決して誇れるような存在でないと、やっと知る。
それでやっと、最初から「取るに足りない」と思っている人と、同じ段階に達することができた。
イエス・キリストは、現代も、まずは「弱い者。取るに足りない者。見下されている者。無に等しいもの。」を捜しているのだろう。
私達は、まずは「自分は取るに足りない」という初心に立ち続ける必要があるのだろう。
そして、今まさに「弱い者。取るに足りない者。見下されている者。無に等しいもの。」へ、アプローチしていくことが、神から求められているのだろう。
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