ルカ12章2節

おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。

 

イエスが、パリサイ人に向けて話されたことだが、当然のことながら、私たちにも向けられている。

本当の動機が隠されている。隠された動機。

神のため、人のためといいながら、自分のために行っている。

自分がかわいい。

また、私たちは、往々にして、人を相当意識して生きている。

人に認めてもらうため、人の同意や賞賛を受けるため、あるいは、人からの批判を受けたくないために語り、ふるまう傾向がないだろうか。

つまり、自分のため、自分の保身のために行っている。

それが、本当の動機である場合がある。

 

神を、私たちの中心におき、神のために、神から認めてもらうために、あるいは神から認めてもらうことを、語り行っているか。

自分のためなのか、神のためなのか。

神のために行っていると、確信していたはずが、いつの間にか自分のために、なってはいないか。

 

いずれにしても、神の眼には、全てはガラス張りで、いずれ隠された動機がはっきりする。

 

私は、社会的に弱い立場の方への支援活動を行っているのだが、果たして自分は、本当に、神のために生きているのか、神のために今の活動を行っているのか、自問するときがある。

弱者支援といいながら、所詮、自分のために行っていないか、自己満足のためになっていないか、人に喜ばれ評価されるために行っていないか、人々の考え方に迎合していないか・・・。

本当に神のために行っているのか・・・。

このような問答のときに、サタンがささやいてくる場合もある。多くは、私の意欲をくじくためである。神からは、決してネガティブな語りかけはない。

 

このような問答にも、慣れてきたような気がする。

つまり、自分への語りかけには、3種類あって、神からか、自分からか、サタンからである。

大切なことは、私たち人間は、不十分な成長過程のクリスチャンで、残念ながら、気持ちが揺れ動いたり、罪を犯す場合があるということだ。それを、まず認識する必要があるだろう。

自分は、揺れ動くことのない、しっかりしたクリスチャンだと思わないほうがいい。

 

そして、神のための思いや行いでないと、わかったときは、すぐに悔い改め、基本に立ち戻ることだろう。

それを、神は、不完全な私たちクリスチャンに求めていると思う。

いつも神に立ち返り、神により頼むことを。

それは、毎日、必要なのだろう。

そのために、まず朝、神との対話の時間、聖書を読む習慣が、最低限欠かせないだろう。

それが、自分を謙虚にさせ、神との接点を保つ。

自分のための隠された動機が、生まれないためにも。

 

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