キリスト教の特徴として、一番とも言える重たい罪が、プライドであるということだろう。
私が、クリスチャンになるまでは、プライドが、それほど重要な問題であることを意識していなかった。人間にはありうる通常の感情である。
しかし、クリスチャンになり、そして聖書を読めば読むほど、最大の罪であることがわかってくる。
プライドそれは、自己中心そして他者との比較、そして、重要な問題が生まれる。
それは、自分>神になることだろう。
サターンは、とても優れた御使いだったが、結局、神よりも自分を愛し、自分を中心にすえようとした。
私は、神様が、御使いや人間に、このような余地を与えたことを、酷に思うこともあったが、やはり、自由意志を与えたかったのだろう。
自らの選択として、神を愛するのか、あるいはそれ以上に自らを愛するのかを。
私たちの生涯のテーマだと思う。
ルカ9章46節にこう書かれている
さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
これを読むと、なんと、つまらないことを、いまさら、議論しているのだろうと、多くのクリスチャンは、苦笑すると思う。私もそうであった。
レベルが低い、幼稚だ、あれだけ、イエスとともに行動し、御言葉を直接聞き、奇跡を多く見てきたにもかかわらず・・・と。
しかし、彼らを笑えるだろうか。
私たちも、ひそかに、他者を査定したり、心の中で比べ、彼よりはましだ、立派だと思うことはないだろうか。さらには、敵意を持つことはないだろうか。
これらは、自分のプライドから生じる問題である。
人間には、プライドの芽がたえず潜んでいる。自己中心性が隠れている。
私には残念ながら、その要素がある。
気をつけよう。
だから、すかさず、イエスはこう言われたのだろう。
私たち、大人のクリスチャンの課題であると。
ルカ9章47~
9:47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、
9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
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