通読により、現在旧約聖書は、ハバクク書を読んでいる。
パウロは、信仰義認を説明する中で、ハバククから引用している。
ローマ1章17節
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
これは、ハバクク書からの引用である。
ハバクク2章4節
しかし、正しい人は、その信仰によって生きる。
その信仰によって生きたハバククが、神に相当、不平不満をいっている。
冒頭からである。
ハバクク1章2節
主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いて下さらないのですか。
そういう意味では、エレミヤも神に、不満をぶちまけている。
エレミヤ12章1節
…一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。
なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。・・・
彼らの時代背景を踏まえると、その大変さは想像を超える。
大変な時代にいた。だから、ぼやき、不平も言いたくなる。
しかし、不平は言うが、二人とも神を信じている。
正面から、不平を言えるお方がいるのは、感謝なことだ。
それを聞いてくれるお方がいるのは、感謝なことだ。
それは、今日でも同じだろう。
私たちは、なぜ、現状がこうなっているかの理由がわからない。
支配されている神の意図が分からない場合もある。
だから、不平を言う場合もあるのだが、しかしながら神を信じている。
どんな状況にあっても、あなたは、けっして、私たちを悪い様にはなさらない。
しかも、その神が、私たちの中に住まわれている。
神を信じ、神の約束は、必ず成就されると確信している。
ハバクク書の最後を読むと、彼がいかに信仰の人であり、どんなに大変な状況でも主に望みをおいていたかが、分かる。
楽観主義の極み。
旧約の時代のハバククに見習いたいものだ。
いわんや新約の今日、私たちは、その神が、私たちの中に住まわれている。
何も恐れるものはないのだ。
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
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