ヨナ書を読んで思うこと。

信仰とは、不思議なものです。

私は、クリスチャンになってから、数年は、さすがにヨナが、「大魚にのみこまれ、三日三晩、魚の腹の中にいた」ということを、一つの例えではないかと感じていた。

天地創造、アダム誕生、モーゼが大海をせき止める等の奇跡は、そのまま信じていたにもかかわらず、この箇所は、なぜかしら、どうかなと思っていた。

 

しかし、今は、事実としてあったと信じるようになっている。

なぜなら、聖書にそう書いてあるし、イエスが、そのまま引用しているからである。

マタイ12章40

ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

 

聖書に書いてあるから、それ以上考える必要がない。そのままやっと素直に信じるようになった。

そのような感覚で、ヨナ書を読んでいると、神の人類に対する思いが、さらに、重たくひしひしと伝わってくる。とても感謝にたえない。

ヨナは、ニネベの悔い改めを求めてではなく、神の審判を宣告するためにやってきたが、神は人々の悔い改めを喜び、罰を延ばされた。ヨナは、大いに心外する。

散々に痛めつけられた敵国アッシリアの首都ニネベ。その生き残りに対する残念さ、憤りであろう。

私が、イエスキリストをまだ知らない状態で、当時のヨナと同じ立場であったら、間違いなくそう感じていたであろう。

そして、最後のとうごまのお話である。

 

4:6 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

4:7 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。

4:8 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」

4:9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」

4:10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

4:11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

 

神とは、なんとあわれみ深いのであろうか。全ての民を愛している。家畜のことまで、心配しておられる。神は、全人類や被造物全体を、骨折って育てられた。また、嘆きながらも、愛を持って、いつくしんでおられる。

ヨナ書を史実として、歴史書として忠実に読むようになればなるほど、底知れない神のあわれみを覚える。

私たちの想像を超えるお方。

不完全な私たちに対して、そのような神であることを、感謝します。

 

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