夏休みに、貴重な本を読みました。

ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯」です。

私は、ウオッチマン・ニーの著作に彼のことが書かれており、気になっていました。

有名な古典ですので、読んだ方も多いと思います。

 

彼は、修道会で一番苦手な皿洗いの仕事を与えられましたが、絶えず、主との交わりの中にいる喜びを見出したため、皿洗いの時間も祈りの時間も全く同じものとなったのです。

とても、平凡な一生でしたが、修道院長ボーフォールが、霊的混迷の時代の中にあって、宝石のように光を放つローレンスの生き方に深い感銘を受け、残されたわずかな談話と手紙を集め、1693年に、本として出されたものです。

 

とても、信じられない霊的な高さで、イエスキリストと父なる神との関係は、このような関係だったのかと思うほどの感動があります。

私達は、神の臨在にあることを求め、教会に行き、礼拝し、祈り、その臨在を感じられた時に、大きな満足と平安を覚えます。

しかし、彼は、訓練の後、日常、何を行っていても、絶えず臨在の中にいる状態になります。

このような一節があります。

 

「私は神への愛のゆえに、フライパンの小さなオムレツを裏がえします。それが終わって、何もすることがなければ、私は床にふして私の神を礼拝し、オムレツを作る恵みを与えて下さったことを感謝し、それから、王よりも幸福な気持ちで立ち上がります。ほかに何もすることができない時、神への愛のためには、一本のわらを拾い上げることでも十分です。

人々はどのようにして神を愛するかと学ぶ方法をさがしています。その人たちは、わたしの知らない、いろいろな実践的方法を実行することによって、神への愛を得たいと願っています。

さまざまな手段によって神の臨在の下にとどまろうと苦労しています。

それよりも、すべてのことを神を愛する愛のためになし、生活の必要の中で果たすべき自分のあらゆる勤めを通して、その愛を神に示し、神と心を通わせることによって自分の内に神の臨在を保つことの方がもっと近道ではないでしょうか。複雑なことは何もありません。率直に、単純に、それに向かって行きさえすればいいのです。」

ただし、神を愛するためには、神の働きをいたしますと言い、神の助けを祈り、神のために愛の行いを実行することで十分だと思ってはならないと、ボーフォールはいいます。

彼が愛の完成に到達してのは、ひとえに、彼がいちばん初めから、神を悲しませることは何もしないように気をつけたこと、そして、他のものはみな放棄し、全く自分を忘れて仕えたゆえであると。

彼にとっては、すべてのものは同じでした。いかなる場所も、どんな務めも、すべては同じで、どこにでも神を見つけました。靴を修理しているときも、修道院で祈っているときも同じように。

 

私は、とてもこのような心境にはなれないが、これがクリスチャンの到達点、キリストに似たるものになることの実現例が、存在することに、励まされる。

また、このような4百年以上も前の証が、残されて私達が読んでいるということに、神のご計画を覚える。

日常の仕事の中で、自分の勤めを通して神の臨在を感じている、そういう時間を、少しずつでも持ち、増やしていきたいものです。

 

もし良かったら、クリックしていただくと、とても励みになり感謝です。


にほんブログ村 ←