昨日のブログで、次のように書きました。
「私達クリスチャンは、神を全面的に信頼しているが、神は、私達を信頼しているだろうか。
神は、私達の罪をゆるし、愛しているが、果たして信頼しているだろうか。
信頼の度合いは、濃淡があると思う。」
つまり、私達の言行一致の状況など、私達の信仰が、行いとなって結実しているか、ご覧になっているだろうと、考えています。
聖書に書かれているとおり、人は実によって判断できるからです。
このように、書きながら、もっと深いところの意味で、訂正しなければならないことに気がつきました。
それは、上記の「私達クリスチャンは、神を全面的に信頼しているが」の部分で、そうとも言えないのではないかということです。
つまり、
①どんな状況でも、いついかなる時でも、神を全面的に信頼し、より頼んでいる
②神を全面的に信頼し、より頼もうと心がけている
③神にもより頼んでいる、しかし、この世的なものにもより頼む
④必要に応じ、神にも願い頼む
等の段階があると思う。
①の段階を文字通りキープされている方は、まれだと思う。
①の状態をめざしながらも、正直なところ、心がけのレベルではないだろうか
さらに「神にも、より頼む」という思いがないだろうか。
つまり、私達は、まず、何よりも神を愛し、全面的により頼んでいるだろうか。困った時でも、順調な時でも、あらゆる時に、神を中心に置き、すべてを神にゆだねているだろうか。
すべてを神にゆだねている人には、神はどんな状況にあっても、彼を見捨てず、助け、神が完全に支配しサポートしてくださるだろう。神は、彼を大いに信頼し愛し、報いは大きいだろう。
つまり、まず、もっとも大切なことは、いつも、神を愛し信じ、より頼んでいるかということだろう。
聖書の第1の戒め「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」が、大前提として、求められるのだろう。
これでもかと・・・を尽くしてと、おっしゃられる神様の意図、そして人を愛するが故の、必至ともいえる神の願いが、伝わってきます。
その神様の願い、愛に応えているかが、まず、私(達)に問われてのだと思います。
そして、神様は、第2の戒めである隣人愛を、私(達)に期待し、それを私(達)が行うことを、求められます。神は、人を、それもえこひいきなく愛されているので。
つまりは、結局のところ、徹底的に神を愛し、人を愛することに尽きる。
もし良かったら、一日一回、感謝です。