昨日、思いがけなく預言を受けたこと、そしてそれが、混じりけのない、神からのものであると確信したことをブログに書きました。
さらには、神からの発信内容が、あまりに人間的であることに驚き、神は何と人格的な神なんだろうと思いました。
以上のことは、グーグル「ICFTVトップ」で検索し、その中の2015.3.22(12分半過ぎから)で、ご覧いただけます。
さて、「なぜ私は、神とは人格的なのか」と思ったかを、お話ししたいと思います。
まず、人間同士の関係からとらえてみます。
通常、円滑で良好な人間関係とは、信頼関係の上に成り立ちます。
相手が、信頼できるかどうかのポイントは、「約束を守る、頼りになる、誠実な行い」かどうか、になると思われます。
それと同様に、神様も同じような視点で、人間を見ていると、預言を通じて確信したからです。
幸いにして、神は、私のことを、「力の人である、とても信頼することができる、人があなたを頼る人である。自分の語ったことの約束を守る、一度口にしたことは、必ず実行する人」だと語ってくれました。
そして、私に、尊厳(名誉)を与えてくださり、いろいろな状況下で、人からの好意をくれるという。さらに、それに加えて、私と家族にもっと祝福を注いでくださるという。
感謝です。
つまり神は、人間が人間を見るのと同じような尺度で、神も人を見ておられるだと、啓示をうけたわけです。
ああ、神様も同じなんだと。
さらには、神が愛し、この世に存在させた人々に対して、人が、どのように行われているかについて、ご覧になっている、と感じ取ったわけです。
つまり、神が命じた隣人愛の履行状況をみており、それが各個人に対する評価尺度の大きな要素であると感じたわけです。
私達クリスチャンは、神を全面的に信頼しているが、神は、私達を信頼しているだろうか。
神は、私達の罪をゆるし、愛しているが、果たして信頼しているだろうか。
信頼の度合いは、濃淡があると思う。
神は、時間をかけて私(達)を見極め、私(達)を信頼すればするほど、おそらく、さらに多くのことを、私(達)に与えてくれる、任せてくれる、という関係が成立すると思う。
神も、人間同様に、何かをなしたい時「約束を守る人、誠実な人、口にしたことは必ず実行する人」を選ぶだろう。安心感・安定感があるからだ。
それに応える私(達)には、試練も付きまとうだろうが、神からの報いはとても大きい。
もし良かったら、一日一回、感謝です。