祈りは、何よりも重要であること、すべては、先ず、神に祈ることから始まると思っている。
私は、56歳でクリスチャンになったときは、教会では、何かにつけて祈っているのを、奇異に感じたこともあった。
いやしの祈り、町全体の救いの祈り、国の指導者への祈り、イスラエルへの祈り、さらには、教会の発展、行事の成功、人間関係の回復のいのり・・・等熱心に祈っている。
私は、クリスチャンになった当初、祈りの重要性について、認識不足の面があった為、「祈っている割には、行動が足りない。」と感じていた。
私は、教会とは、祈りと行動の両輪があって、初めてよりよく機能し、力強く神の国を実現するはずだと、思いを持った。
それは、今も全く変わらず、今では、神がその思いを与えてくれたものだと確信している。
従って、洗礼を受けてすぐに、貧者や悩んでいる方への活動を始めたわけである。
神が、私に与えてくれたミッションである。
その後、聖書の毎日の通読、活動を通じた実体験により、祈りの重要性を深く知ることになる。
神にすべてをゆだねることも知る。神が、悩みを背負ってくれることも知る。祈りで、ビジョン、啓示が示されることも知る。・・・
毎朝の2時間のデボーションルーティーンの中で、祈りは欠かしていない。
イエス・キリストが祈りの模範を示されたこと、また、過去の偉人が祈りの重要性を、聖書を通じて(つまり神を通じて)教えてくれたことに感謝します。
そうは言いながら、今回お話したいことは、皆さんから多くのご批判をいただくことかもしれない。
言いたいことは、「不要な祈りが、多すぎないか」と言うことである。
私も含めてである。
「祈りになんでも依存し過ぎる傾向がないか」
「祈るよりも、行動すべき場合と思われるが、行動せずに祈っていることはないか」
「祈りはなにより重要、との観念が強すぎて、祈ることによって、免責されている錯覚に陥っていないか」
従って「祈りの数十%は不要でないか」
・・・と言うことである。
私も、自分の今の祈りは、神に祈るべきものではなく、自分で行うべきものと、気づかされることもある
祈りの重要性に対する認識は、私なりに、まだ不十分かもしれないが、私なりに祈りの大切さを把握はしてきたものの、私が、当初に感じた、教会内での祈りの量及び質について、どうしても疑問が残っている。
つまり、祈りのわりには、「教会の外へ出ていっての行動」が足りないのでは、と感じている。
もし良かったら、一日一回、感謝です。