イエスが、神であるか否かを、聖書を通じて格闘して時の感想を述べる。

 

また「わたしがそれです。」という御言葉は、私は神の子であり、ユダヤの民が渇望しているメシア、つまり救い主ということである。旧約聖書は、キリスト誕生以前に書かれたもので、時代も作者も違う三十九の書物から成立っている。興味深いことに、メシア、つまり救い主がこの世に現れることが暗示され、具体的に予言されている。

そして、ユダヤの民が待ちに待ったメシアは、この私だと言っているわけだ。旧約聖書を読んでみると、鮮明にイエスを想定させる文書があり、その統一性に驚嘆する。家系や生誕地までもが予言され、また十字架にかけられた具体的な様子までもが、鮮明に書かれているところもある。驚愕すべきは、数々の預言が的中するという、ありえないまでのその確率だ。その事実を直視する必要がある。

また、このような表現もある。

 

ヨハネ8:58

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

ヨハネ10:30

わたしと父とは一つです。

ヨハネ17:5

父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。

 

これは、少なくとも三次元の世界に住む人間の認識能力を超えている。時間や空間を明らかに超えた方であるということを示している。イエスご自身は、世界が存在する前から、つまり始めから存在し、自分と父なる神とは一つという論理的には理解しがたいことを言っている。

これらの点が、仏教やイスラム教との決定的な違いである。この最大の違いが、意外と日本人に理解されていないのではないか。少なくとも私は、この点を理解していなかった。神のような振る舞いはあったかもしれないが、釈迦と同じ様な偉人として思われている方も多いのではないだろうか。

さらには、聖書は、以前の私がそうだったように、人類が生み出した神概念の集大成に過ぎないと思っておられるかもしれない。さらには、西洋の神であり、日本人の私達とは違う世界の話だと考えていた。日本人には日本人の神感がある。

しかし、ポイントは、聖書を読まずして、神について一方的な自己解釈をしていたということだ。聖書の中では、イエスは、神の子といわれている。このような方が、人類史上いただろうか。もちろん、自称「私は神である。」と言った人は、古今東西を問わず、数知れずいただろうが、いずれ正体が分かり、歴史に名をとどめていない。

 

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