礼拝音声
聖書箇所:1ヨハネ 4:7-21
説教題:互いに愛し合え-その戒めの土台-
はじめに
この箇所の中で「互いに愛し合いなさい」という命令は、7節、11節、21節の3回繰り返されており、その重要性が強調されています。しかし、この「愛」は、世の中で平和や調和と結び付けられるような愛とは異なります。この命令に従うには、その土台を正しく理解する必要があります。さあ、神のことばをともに見ていきましょう。
本論
1)命令の起源(7〜11節)
7節は明確に「愛は神から出ている」と教えています。この愛は、イエス・キリストを通して啓示されました(9〜10節)。アダムとエバは自らの意思で神に背きましたから、神には人類を救う義務はありませんでした。それでも神は、私たちの罪のための贖いとして、ご自分の御子イエス・キリストを遣わされました。
愛そのものであるイエスが、「互いに愛し合いなさい」と命じられたのです。(ヨハネ13:34、第一ヨハネ4:21 参照)
それこそが、私たちが映し出すべき愛です。(11節)
この愛は、私たちの中から自然に湧き出るものではありませんし、感情や好意に基づくものでもありません。
神への従順のゆえに、私たちは神の愛の模範に従って生きようと努めます。(21節)
2)私たちのうちにある神のご臨在(12〜16節)
ギリシャ語の原文では、メノーという言葉が使われており、これはヨハネ15章10節で「とどまる」と訳されています。この語は、神の命令に従うときに神が私たちと共に「とどまって」くださること、すなわち、従順を通して神の臨在が私たちに与えられることを示しています。
さらに、神は私たちに聖霊を与えてくださいました。イエス・キリストについて聖書的な理解を持つことが、神が私たちのうちにおられる証拠です(13節)。ヨハネはこの命令を、最後の晩餐の場でイエスから直接聞きました(14節)。
聖霊は私たちにイエスの正しい理解を与えてくださり、私たちは「イエスは神の御子である」と告白します。(ヨハネ15:26参照)
もしイエスが神の御子でなかったなら、罪のないいけにえとして十字架にかかることはできませんでした。この理解は福音の核心であり、イエスの神性を否定したグノーシス主義の異端を退けるものです。
16節はこの真理を要約し、信仰の確信を与えています。さらに、私たちの生き方そのものが、イエス・キリストの証しであることを心に留めておきましょう。
3)私たちのうちに完成された神の愛への確信(17〜18節)
17節は、「愛が私たちのうちで全うされている」と述べています。これは、信じる者たちのうちに、イエス・キリストを通して神の愛が完成されているという意味です。
キリスト者として、私たちはキリストの義に包まれているので、裁きの日を恐れる必要はありません。むしろ、確信をもってその日を迎えることができます。
ですから、ヨハネは「恐れる者には愛が全うされていない」と言います。これは、グノーシス派の偽教師たちの教えに動揺している人々への警告です。もし新しい啓示や知識だとされるものを聞いて、救いに対する恐れが心に生じるなら、それは神の愛があなたのうちでまだ完成されていないという証拠です。
しかし、神の愛とその救いに確信を持っているとき、私たちは「互いに愛し合いなさい」という命令にも自信を持って従うことができます。
これは12節にもつながります。私たちの愛の実践こそが、神の臨在と、神の愛が私たちのうちで完成されている証しなのです。
19〜21節は、今日の箇所のまとめと結論です。
ヨハネはすでに強調してきた幾つかの重要な点を、再びここで確認しています。
まず、神学的な土台と動機が19節で再確認されます。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」(10節も参照)。
次に、誤った主張が否定されます。「もし『私は神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいたら…」(20節。8節、11節も参照)。グノーシス主義の偽教師は、兄弟を見下し、不安に陥れ、兄弟を愛しているとは言えませんでした。
最後に、命令がもう一度繰り返され、強調されます。「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです」(21節。7節、11節も参照)。
まとめ
「互いに愛し合いなさい」という命令は新しいものではなく、キリスト教信仰の根幹にある命令です。
この命令は、イエスが最初に弟子たちに与えたものであり、今や使徒ヨハネが、彼が心配りをしている教会へと忠実に引き継いでいます。私たちもその命令に従うのです。
第一ヨハネ4章7〜21節の解き明かしにおいて、私たちが互いに愛し合うように召されている理由を3つに分けて見てきました。以下はその要点のまとめです。
1)命令の起源(7〜11節)
これは提案ではなく、神からの命令であり、神ご自身の本質に根ざしたものです。神は愛です。この愛は、イエス・キリストの犠牲の死において最もはっきりと示されました。人間の思いをはるかに超える愛――これ以上の愛はありません。
2)私たちのうちにある神のご臨在(12〜16節)
キリストへの信仰によって、神はその聖霊を通して私たちのうちに住んでくださいます。「インマヌエル――神が共におられる」お方は、私たちを励まし、従順に生きる力を与えてくださいます。
新しくされた心によって、私たちは神のことばに従い、その命令を守ろうと願い、互いに愛し合うのです。
3)私たちのうちに完成された神の愛への確信(17〜18節)
17節においてヨハネが語る確信には力があります。「この世において私たちもキリストと同じようであるからです。」私たちがキリストと同じようだというのは、なんと大胆な宣言ではないでしょうか。私たちはこの世にあっても、神と一つにされ、キリストの義を着せられています。だから、「キリストと同じようである」わけなのです。ゆえに、裁きの日を恐れることはありません。この確信が、神の命令に従いたいという願いをさらに強め、「互いに愛し合う」歩みへと導いていきます。