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パース日本語キリスト教会は、オーストラリア長老教会西オーストラリア中会に所属するHenderson Memorial Presbyterian Churchの日本語部です。日本長老教会と協力関係に有ります。

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集会
日曜礼拝    午後1時より(第五日曜日は合同礼拝のため午前10時半より)

聖書研究会   火曜日午後1時より(現在休止中です。ブログに研究ノートを掲載します。)
プレイグループ 木曜日午前10時より(就学前のお子さんとお母さんのためのグループです。)
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2001年にアメリカ人宣教師Stephen Young師によって開拓されました。
Stephen Young師は2013年に帰国し、テネシー州で日本語礼拝の開拓を始めました。
Stephen Young師の現在の奉仕は、こちらと、こちらからご確認いただけます。

2015年10月森本実牧師が就任しました。


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礼拝音声

 

聖書朗読:ヨブ28:20-28、42:1-6
説教題:苦難の中で覚えておくべきこと」

 

序論

ヨブ記は42章から成る長い書物です。この書から私たちが何を学ぶべきなのかを理解するのは、簡単ではありません。

そこで、今後ヨブ記を読む際の助けとなるように、まずその全体的なメッセージと、いくつかの重要なポイントを見てみましょう。

本論

1~2章

この書は、私たちには未知の領域である天で起こっている出来事から始まります。

ここでは、私たちには見えない、あるいは理解できない理由のために、神がそれを許されることによって、地上でさまざまなことが起こり得ることが示されています。

霊的な領域で起こっているすべてのことを、私たちが知ることはできません。

3章

ヨブは、人生が耐えられないものになってしまったことを、ただ嘆きます。

23節で彼は神に、「先が見えない私を、なぜ生かしておかれるのですか」と尋ねます。

4~27章

ヨブと3人の友人、エリファズ、ビルダデ、ツォファルとの間で、長い対話が続きます。

後に神は42章7~8節で、彼らが神について正しく語らなかったとして、彼らを責めます。

友人たちは、ヨブが苦しんでいるのは、彼が罪を犯したからだと考えていました。彼らの考えは、応報の原則に基づいていました。つまり、「善は報われ、悪は罰せられる」という考えです。

彼らはこの原則を絶対的なルールとして扱い、「苦しみがあるなら、そこには必ず罪がある」と考えました。

彼らの問題は、目の前で苦しんでいる一人の人間よりも、自分たちの神学的な体系を上位に置いてしまったことです。

彼らはヨブを、正される必要のある人として扱い、罪によって説明できない苦しみが存在する余地を残しませんでした。

神の正義を擁護しようとするあまり、彼らは罪のない人を誤って責めてしまったのです。

28章

ここで焦点は「知恵」に移ります。

人間には驚くべき知識と能力があります。しかし、人間の知恵には限界があります。私たちは、自分自身の力だけで真の知恵を見いだすことはできません。

28節は、その答えを示しています。

「主を恐れること、それが知恵である。」

ヨブもその友人たちも、自分たちは知恵を持っていると考えていました。

この章は、彼らの態度が本当に真の知恵を反映していたのか、私たちに問いかけています。

29~31章

ヨブは、かつて善を行い、神の祝福を経験していた頃の自分の生活を振り返ります。

今、彼はひどく苦しんでいます。それでも、自分は潔白であると主張し続けます。

それでも彼は、神からの答えを求め続けます。

31章35節で、彼は「全能者が私に答えてくださるように」と言います。

ヨブは神を見捨てることなく、神を求め続けるのです。

32~37章

神がすぐに答える代わりに、4人目の話し手であるエリフが語り始めます。

彼は別の視点を示します。苦しみは、必ずしもその人が罪を犯したことを意味するわけではありません。

神は人間よりも偉大であり、神は人を教えたり、警告したり、正したりするために、苦しみを用いることがあります(33:17)。

エリフは徐々に、ヨブの関心を「自分が潔白である」ということから、「神の偉大さ」へと向けていきます。

しかし、それでも彼はヨブの中心的な問い、「なぜ私は苦しんでいるのか」という問いには答えていません。

38~42章

ついに、神ご自身が語られます。

しかし神は、ヨブが期待していたような説明を与えません。

その代わりに、神はヨブに質問をします。

「私が世界を創造した知恵を、あなたは理解しているのか」(38:5)

神は、ヨブが神を理解するための枠組みそのものを変えられます。

神は、人間の知識には限界があり、全体像を知らずに、ある出来事の意味を判断することはできないことを示されます。

神はまた、苦しみという問題を、単純な「道徳的な報いと罰」の仕組みを超えたところへと導きます。

神は、創造、星々、動物、そして自然界に目を向けさせます。

ヨブの苦しみは、単純に「罪に対する罰」として説明することはできないのです。

同時に、神はヨブを対話へと招いておられます。

ヨブは自分の限界を認め、沈黙します(40:4~5)。しかし、神は語り続けられます。

ベヘモットとレビヤタンについての描写は、人間の力では制御できない存在や力を指し示しています。しかし、それらでさえ、神の主権的な支配の中にあります。

最後にヨブは、神にはご自身の目的を成し遂げる権威があること、そして自分は自分の理解の限界を超えて語っていたことを認めます。

そして、こう言います。

「今、私の目があなたを見ました」(42:5)

人は神を見ることはできません。旧約聖書には、神を見た者は死ぬという理解が示されています。それでは、ヨブの目が神を見たというのはどういうことだったのでしょうか。

ヨブは、単に説明を受け取ったのではありません。

神との対話を通して、ヨブは神ご自身を知るようになったのです。

彼は、自分自身の理解の限界の中で神を判断しようとしていたことに気づきます。

そして、答えのない問いを抱えたままでも、神との関係の中にとどまりながら生きていくことを学びます。その神との関係に入ったことを、「あなたを見ました」と表現していると考えられます。

その後、神はヨブの3人の友人を責めます。一方で、ヨブを受け入れられます。

ヨブは深く嘆きました。しかし、神を見捨てることはありませんでした。

彼は自分の苦しみを正直に神に訴え、それでも神を求め続けたのです。

結論

もし私たちが苦しみを通らなければならない時があれば、次のことを覚えておくことが良いと思われます。

1)苦しんでいるとき、単純な公式ですぐに自分や他人を判断しない

「良い人には良いことが起こり、悪い人には悪いことが起こる」というような単純な公式によって、自分自身や他人をすぐに判断すべきではありません。

神が、私たちには見えない理由のために、苦しみを許されることもあります。

2)人間の知恵の限界を認め、神を信頼し、祈りによって神との関係にとどまる

私たちは、人間の知恵には限界があることを認め、神を信頼し、祈りを通して神との関係にとどまるべきです。

苦しみの詩篇と同じように、私たちは神を見捨てることなく、自分の痛みを正直に神のもとへ持っていくことができます。

3)どのような状況でも感謝する

新約聖書は、どのような状況にあっても感謝するように教えています(Ⅰテサロニケ5:18、フィリピ4:6~7)。

これは、私たちが苦しみそのものに対して「感謝だ」と感じなければならない、という意味ではありません。

しかし、私たちは感謝するように努めることができます。

たとえ感謝の感情が伴わなくても、神の恵みと平安を信頼しながら、神に従い、感謝をもって祈ることができます。

4)ヨブの試練は、彼の誠実さを明らかにした

ヨブ1章8節で、神ご自身がヨブを「潔白で正しい人」と呼んでおられます。そして、そのことは、ヨブの行動と言葉によって証明されたのです。

ヨブのように、私たちも苦しみの中で忠実に耐え忍ぶことを求めるべきです。

そして、忍耐する人々には祝福があることを覚えておきましょう(ヤコブ5:11)。

 

礼拝音声はありません

 

聖書箇所:1サムエル 27:1-12

説教題:人間の弱さにもかかわらず、神の御計画は続く

 

 

序論

今日の聖書箇所でダビデがしたことは、私たちに否定的な印象を与えるかもしれません。彼の行動は、神への不信仰から生じたようにも見えます。ある学者たちは、彼の行動は22章5節にある神の指示、「ユダの地に帰りなさい」という御言葉に反するものだったと考えています。

しかし、ダビデのこの行動を通して、神が何を成し遂げられたのかを学んでいきましょう。

本論

1–4節

ダビデは、神の御心を求めることなく、自分自身の考えに基づいて行動しました。

しかし、この時点では、もはやこれはダビデ個人だけの問題ではありませんでした。彼は自分の家族と六百人の部下たちとともに、一つの共同体を形成していたからです。

ダビデは以前、ガテのアキシュのもとから逃げるために、気が狂ったふりをしました(21章)。おそらく今回は、アキシュはダビデとその部下たちが、将来、自分にとって役立つかもしれないと考え、彼らを歓迎したのでしょう。その結果、サウルはダビデを追跡するのをやめました。

5–7節

ダビデは、ツィクラグに住むことを許してもらうよう、知恵をもってアキシュに願い出ました。ツィクラグは田舎の町であったため、ガテの人々はダビデがそこに住みついたことに、あまり注意を払いませんでした。

さらに、ツィクラグはユダ族とシメオン族に割り当てられた領地にありましたが、彼らはそこを完全に占領することができていませんでした。このようにして、ダビデを通して、神はユダのための御計画を成し遂げられ、ツィクラグはユダに属する町となりました。

7節は、ツィクラグが単なる一時的な野営地ではなく、ダビデとその部下たちにとって恒久的な居住地となったことを示しています。

8–9節

ここでダビデがしたことは、残酷で、神を恐れない行為のように聞こえるかもしれません。

しかし、学者たちは、ゲシュル人とゲゼル人は、申命記7章1–2節で神がイスラエルに滅ぼすよう命じられたアモリ人の残存者であったと説明しています。また神は、申命記25章17–19節で、イスラエルにアマレク人を滅ぼすよう命じられました。この命令は、Ⅰサムエル記15章2–3節でサウルに対して、改めて与えられています。ですから、ダビデは実際には、神が以前に与えられた命令を実行していた、と見ることができます。

10–12節

アキシュの軍勢の一員であり、その指揮官でもあったダビデに対して、アキシュは時々、どこへ行って何をしていたのか報告するよう求めました。その地帯では略奪が一般的な出来事だったので、アキシュもどこを略奪したかという尋ね方をしたのです。ダビデが報告したネゲブはユダに属する地域でした。そのため、アキシュはダビデが同胞を攻撃していると思い、きっと自分の元にずっとりだろうと思いました。

アキシュは、ダビデがユダを攻撃していると信じました。しかし実際には、ダビデが攻撃していたのはユダの敵でした。

結論

ダビデは、人間的な計算によってアキシュのもとへ逃げました。そのことは、彼の信仰の弱さを示しているように見えます。

しかし同時に、ダビデは自分の家族と六百人の部下たちからなる共同体を守ろうとしていました。

そして神は、ダビデを通して御自身の御計画を成し遂げ、ユダの領土を確保されました。

私たちが弱さを抱えている時でさえ、神の御計画は成し遂げられるのです。

ですから、私たちの罪を悔い改め、自分の弱さを神に委ねましょう。そして、神の御心が成し遂げられるように、祈りながら歩んでいきましょう。

礼拝音声

 

聖書箇所:使徒の働き 5:1-11 

説教題:教会内の主の臨在 – 主の恵みと裁き

序論

信者たちは、心と思いを一つにして神の御言葉を語っていました。聖霊に満たされ、イエス・キリストの復活を証しし、彼ら全員の上には大きな恵みがありました。使徒たちの指導のもと、彼らは自分たちの持っているものを惜しみなく分かち合い、信者の共同体の中で必要のある人々を助けていました。

そこへ、ある夫婦がやって来ました。彼らもまた、外面的には同じことをしているように見えました。しかし、その結果は全く違うものでした。

それでは、使徒の働き5章1–11節に記されている、この厳粛な出来事を通して、聖書が私たちに何を教えているのかを見ていきましょう。

本論

1–2節 アナニアとサッピラ

アナニアとサッピラは信者でした。他の信者たちと同じように、彼らも自分の所有物を売りました。8節によれば、それは土地でした。そして、その代金を使徒たちの足もとに置きました。

2節には、さらに詳しい説明があります。アナニアは、その売却代金の一部を使徒たちのもとに持って来ました。

パウロがコリント人への手紙第二9章7節で述べているように、献金は強制されるものではなく、自発的にささげるべきものです。

では、何が問題だったのでしょうか。

ペテロが3–4節で語った言葉が、その答えを説明しています。

3–4節 聖霊に対する偽り

問題は、アナニアが聖霊に対して偽ったことでした。

では、どのような意味で偽ったのでしょうか。

その手がかりは、2節と3節で使われている動詞にあります。

語句研究:「取っておく」(νοσφίζω)

この言葉には、「不正に自分のものにする」「横領する」「取り分けておく」「盗む」という意味があります。

ギリシア語旧約聖書では、この言葉はヨシュア記7章1節で、アカンが神にささげられたものの一部を取った、つまり盗んだ行為を表すために使われています。

アナニアは、土地を売って得た代金の全額をささげるかのようにして、その献金を使徒たちの前に持って来ました。しかし、実際にはその一部を自分のために取っておいたのです。

彼の献金は、教会を通して神にささげられるものでした。したがって、彼が取り置いた金額は、神から盗んだものとみなされたのです。

ですから、彼がお金を使徒たちの足もとに置いたとき、彼は聖霊に対して偽ったのでした。

さらに、ペテロの言葉はもう一つの重要な真理を明らかにしています。

聖霊に対して偽ること(3節)は、神に対して偽ること(4節)です。

聖霊は神であり、人格を持つお方です。


ペテロは、彼の質問を通して、もう一つ重要な警告を与えています。

「なぜサタンがあなたの心を満たしたのか」という意味です。

語句研究:「満たす」(πληρόω)

この言葉には、「満たす」「完全にする」という意味があります。この文脈では、「支配する」「影響を与える」という意味合いがあります。

同じ言葉が、エペソ人への手紙5章18節で「御霊に満たされなさい」と言うときにも使われています。

アナニアは、サタンの誘惑を自分の心の中に根付かせ、それを受け入れ、欺くことを意図的に選びました。そして、お金の一部を自分のために残しながら、教会を欺くためにそれを実行したのです。

その偽りは、神への完全な献身をしているという偽りの外見を作り出すためのものでした。

実際にはすべてを犠牲にしていないのに、すべてを犠牲にした人としての評判を得ようとしたのです。

これが、4節でペテロが問いかけた、

「どうして、こんなことをしようと思ったのですか。」

という質問への答えです。

私たちは、このようなパターンを認識しなければなりません。そうすることで、私たち自身が同じ罠に陥ることを避けることができるのです。

5節 神の厳しい裁き

ここで神は、即座に、そして直接的に介入されました。

アナニアは倒れて死にました。

この懲らしめが非常に厳しかったのは、アカンがイスラエルに対する警告となったのと同じように、この出来事が一つの実例となったからです。

この出来事によって、クリスチャンの共同体全体が、神の聖さと裁きがいかに重大なものであるかを認識するようになりました。

語句研究:「恐れ」(φόβος)

この言葉には、「恐れ」「尊敬」「畏敬」という意味があります。

この「神への恐れ」は、罪深い自己顕示の誘惑に対する解毒剤のように働いたことでしょう。

そして、それによって深い謙遜が生まれ、共同体の中から偽善が取り除かれていったのです。

6節 若者たちの奉仕

すると突然、若者たちが現れます。

おそらく彼らは、教会の中で困窮している人々にお金を分配するために、奉仕していた数人のボランティアだったのでしょう。

彼らには、主と信者の共同体に仕えようとする思いがありました。

律法によれば、遺体は日没前に埋葬しなければなりませんでした。そのため、彼らはアナニアの遺体を運び出して埋葬しました。

7–11節 サッピラ

7–11節では、アナニアの場合と同じことが、サッピラについて繰り返されています。

ペテロは、彼女に真実を語る機会を与えました。しかし、彼女はその機会を逃しました。

彼女はアナニアと心を一つにしていました。

そこでペテロは彼女に、

「どうして二人で心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。」

と問いかけました。

ここで「試す」という言葉は、相手の限界を意図的に試そうとする、という意味で使われています。

彼らの態度は、言わば、

「神がどうなさるか見てみよう」

というものでした。

しかし、神はそのようなことを禁じておられます。

(申命記6章16節、マタイの福音書4章7節参照)

サッピラもすぐに死に、夫と同じように埋葬されました。

ルカは、「この出来事を聞いた者はみな、大きな恐れに襲われた」という言葉を繰り返すことによって、教会の信者たちが抱いた畏れの大きさを強調しています。

結論

この箇所から、私たちはいくつかの重要な原則を見いだすことができます。

1. 教会における恵みと欺き

恵み 欺き
① 心の状態:聖霊に満たされていた  サタンに心を満たされた
② 献げる動機:必要のある人々を顧みた  自分をよく見せるために偽った
③ 心の一致:キリストの復活を証しするために一つとなった  神を欺き、神を試すために一つになった
④ 結果:共同体全体に大きな恵みがあった  彼らの上に神の厳しい裁きが下った

2. 神の裁きは「神への恐れ」、すなわち畏敬をもたらす

神の裁きは、私たちに神を恐れ、敬うことの重要性を教えます。

3. 聖霊に対する態度は、神に対する態度である

聖霊の神性。

そして、三位一体の教理です。

聖霊は神であり、聖霊を欺くことは神を欺くことなのです。

4. 教会は、互いに一致し、互いに仕え合う共同体である

礼拝音声

 

聖書箇所:使徒の働き 4:32-37

説教題:大きな恵みの現れ

 

導入

前の箇所で、ペテロとヨハネは、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じられました。そこで二人は信者たちのところに戻り、何が起こったのかを彼らに伝えました。すると彼らは共に祈り、神のことばを大胆に語ることができるよう求めました。そして、その祈りの後、彼らは皆、聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り始めました(31節)。

33節には、「彼ら一同に大きな恵みがあった」とあります。今日の箇所では、その「大きな恵み」が信者たちの生活の中でどのように現れていたのかを見ることができます。神の恵みが彼らの共同体の中で、どのように働いていたのかを見ていきましょう。

本論

32節

同じ神の御霊に満たされたすべての信者たちは、心と思いを一つにしていました。

彼らは、自分たちの持ち物を分かち合いました。このような物質的な分かち合いは、キリストへの忠誠のゆえに迫害を受け、その結果、社会的あるいは経済的な困難を経験していた人々を支える役割を果たしたと考えられます。

33節

31節で見たように、すべての信者が神のことばを語っていました。しかし、使徒たちには、特別に「証人」としての役割が与えられていました。

使徒の働き1章8節、1章22節、2章32節では、使徒たちは特に、イエスの復活の証人として描かれています。

ここで言われている「大きな力」という表現は、使徒たちの証言に伴っていた、並外れた効果、勇気、そして神から与えられた権威を強調しています。

キリストの復活は、彼らが宣べ伝えた福音の中心であり、彼らの確信の土台でした。そのため彼らは、大胆にキリストを証しすることができ、また、聖霊に満たされた信者たちの共同体の中で、徹底した寛大さを実践することができました。

彼らにとって、所有物はもはや、自分たちの究極的な安心や安全を保証するものではありませんでした。それゆえ、「彼ら一同に大きな恵みがあった」のです。

34節

彼らの寛大さもまた、彼らの間で働いていた「大きな恵み」の現れの一つでした。

「彼らの中には、乏しい者が一人もいなかった。」

これは申命記15章4節、7~8節の教えを思い起こさせます。(該当箇所を読んでください。)

教会は、神の民が貧しい人々や乏しい人たちを顧みるという、旧約聖書以来の神の御心を、実際の生活の中で体現し始めていました。

復活の主を中心とする共同体は、乏しい人々に対する神の関心が目に見える形で実践される民となりつつあったのです。

ルカは、その理由について説明していません。しかし、聖霊は時に、信者たちの中のある人々を、自分たちの土地や家を売るように導かれました。

35節

この聖霊に満たされた共同体に明らかにされていた「大きな恵み」は、彼らの一致や寛大さだけでなく、共同体の中にある秩序を通しても現れていました。

お金は、単に困っている個人に直接手渡されたのではありません。それは使徒たちの足もとに置かれ、必要に応じて分配されるようにされました。

ここには、教会に関する事柄が、使徒・長老たちの権威のもとで判断され、実行されるべきだという考えも含まれています。

彼らは、衝動的に与えていたのではありませんでした。共同体には、真に必要としている人々を見極め、その必要に応えるための秩序ある仕組みがありました。

36~37節

ここからルカの焦点は、信者たち全体から使徒たちへ、そして一人の特定の人物、バルナバへと移っていきます。

バルナバは、聖霊に満たされた共同体に生きる信者とはどのような者なのかを具体的に示す人物です。

37節に記されている彼の行動は、34~35節で説明されているパターンと同じです。しかし、ここでは彼の人格にも注目する必要があります。

「バルナバ」という名前は、「慰めの子」あるいは「励ましの子」という意味のあだ名でした。彼の生涯は、聖霊に満たされた励ましとはどのようなものなのかを示していました。

彼は「聖霊と信仰に満ちた人」(使徒の働き11章24節)であり、聖霊、すなわち「パラクレートス」と呼ばれる方の性質と働きを反映していました。パラクレートスとは、信者のそばに寄り添い、彼らを励まし、力づけ、慰めてくださる方です。

バルナバの働きは、信者たちを力づけ、教会を建て上げ、そして徹底した寛大さを通して彼の励ましを表すものでした。

このような性質を持っていた信者は、ほかにも多くいました。しかし、この箇所でバルナバが特に重要なのは、二つの理由があります。

  1. バルナバは、アナニヤとサッピラという夫婦とはっきり対照的な人物として紹介されている。
    アナニヤとサッピラは5章で神の裁きを受けることになります。それに対してバルナバは、聖霊に導かれる正しい人として描かれています。

  2. バルナバは、後に使徒パウロの重要な同労者となる人物として紹介されている。
    彼はレビ人であったため、律法についてよく知っていたことでしょう。また、キプロス出身であったため、異邦人の世界にもよく通じていたと考えられます。

彼の敬虔な人格は、後に神によって用いられ、パウロをエルサレムの使徒たちに紹介する際の助けとなりました。


まとめ

今回は、二つの角度からまとめてみます。

偉大な恵み — 使徒の働き 4:32–37

1. イエス・キリストの復活への確信

· 使徒たちは、大きな力をもってイエスの復活を証しした。

· 信徒たちは聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語った。

· 復活されたキリストへの信仰が、彼らの生き方と証しを形づくっていた。

2. イエス・キリストの証人としての一致

· 信徒たちは、心と思いを一つにしていた。

· 彼らは、キリストへの共通の信仰、目的、献身を分かち合っていた。

· その一致は、福音が真実であることを示し、神にかなった共同体を形成していた。

3. 恵みと分かち合いに満ちた共同体

· 大きな恵みが、彼ら一同の上に注がれていた。

· 彼らは互いに気を配り、特に困窮している人々を支えた。

· 自分の持ち物を進んで分かち合い、彼らの中には困っている人が一人もいなかった。

· 彼らの実践は、申命記15章4節、7~8節の原則を反映していた。

4. 霊的リーダーシップのもとでの秩序

· 信徒たちは、資源の分配を使徒たちに委ねた。

· 共同体は、秩序あるリーダーシップのもとで、互いに惜しみなく与え合った。

· 共同体全体の益のために、使徒たちの指導に謙遜に従った。

 

信徒の共同体 — 使徒の働き 4:32–37

1. 宣教 — キリストを証しする

· 神のことばを大胆に語る。

· 大きな力をもって、イエス・キリストの復活を証しする。

· 共同体の証しの中心に、キリストとその復活を置く。

2. 一致 — 心と思いを一つにする

· 聖霊に満たされる。

· 心と思いを一つにして生きる。

· キリストへの共通の信仰、目的、献身を分かち合う。

· 言葉だけでなく、共に生きることと互いに支え合うことを通して、一致を表す。

3. 実践 — 互いに支え合い、秩序ある共同体として生きる

· 共同体の中で困っている人を支える。

· 困っている人が一人もいないように、持っているものを進んで分かち合う。

· 神がご自分の民のために示された御心を反映する共同体を形成する(申命記15:4、7~8節参照)。

· 使徒たちの指導のもとで、神にかなった秩序と責任ある管理を保つ。

礼拝音声

聖書朗読:雅歌 5:2-8
説教題:神様と私

はじめに

「雅歌」は、一見すると恋愛の詩を集めた本のように見えます。しかし、ユダヤ教では、聖書の中でも特に聖なる書物の一つと考えられてきました。そして、「神とイスラエルの愛」を表すたとえとして読まれてきました。

この読み方では、王は神、女性はイスラエル、見張り人は預言者などの理解をしています。

5章6~7節などには、単なる恋愛の詩として読むと理解しにくい部分があります。しかし、それらは、神とイスラエルの間にあった苦しい関係を表していると考えることができます。

今日は、雅歌から、私たちと神との関係について何を学ぶことができるのかを考えてみましょう。

1.最初の出会い――神がイスラエルを選ばれたこと(1:2~2:7)

雅歌の最初の部分は、神がイスラエルの民をエジプトから連れ出し、ご自分の民として選ばれたことを表していると考えることができます。

シナイ山で、神はイスラエルと契約を結ばれました。それは、結婚の契約にも似た、とても親しい関係を結ぶものでした。

そのため、「王は私をその部屋に連れて行かれた」(1:4)という言葉は、神とイスラエルとの親しい関係が始まったことを表していると考えられます。

私たちの信仰も、神との出会いから始まります。私たちはイエスを受け入れたとき、イエスとの契約の関係に入りました。

ですから、私たちは神と初めて出会ったときの喜びを思い出し、感謝をもって神を礼拝したいと思います。

2.神が見えなく感じるときも、神を探し続ける(2:8~5:1)

イスラエルは、神に守られていることを喜んでいました。2章16節には、そのような確信が表されています。

しかし、イスラエルが神を見失ったように感じる時もありました。

3章1~4節では、女性が何度も「あの方は見あたりませんでした」と言っています。それでも、彼女は愛する人を探し続け、ついに見つけます。

私たちも、ときどき神が遠くにおられるように感じることがあります。

苦しい時でも、神の愛を信じ、神が答えてくださると信頼して、神を探し続けることが大切です。

3.拒絶――間違った優先順位と苦しみ(5:2~5:8)

ここでは、二人の関係に危機が訪れます。

イスラエルは神に選ばれ、愛されていました。しかし、次第に自分たちの利益や自分たちのことを優先するようになり、神を拒むようになりました。

5章4節では、女性はためらっています。一方、愛する人は彼女に手を伸ばしています。

これは、神がイスラエルを神のもとに戻そうとして送られた預言者たちを思い起こさせます。

しかし、イスラエルは神から離れ続けました。

5章6~7節では、女性が見張り人たちに傷つけられ、恥をかかされています。これは、イスラエルが神のさばきによって苦しみ、国が滅ぼされ、外国へ連れて行かれたことを表していると考えることができます。

私たちも、神よりも大切なものを人生の中に置いてしまうことがあります。

パウロはガラテヤ6章7~8節で、「人は、自分が蒔いたものを刈り取る」と教えています。

ですから、私たちは自分の生活をよく振り返る必要があります。

4.悔い改め――神がどのようなお方かをもう一度知る(5:9~6:3)

5章9節で、エルサレムの娘たちは、「あなたの愛する方は、ほかの人より何が優れているのですか」と尋ねます。

すると女性は、5章10~16節で、その方がどんな方なのかを詳しく語ります。

彼女は、自分が愛している方がどのような人なのかを、もう一度思い出しているのです。

イスラエルも神を見失っていました。しかし、苦しみを経験する中で、自分たちが誰を愛しているのかをもう一度知りました。そして、神が決して自分たちを愛することをやめていなかったことにも気づきました。

6章1節では、「あなたの愛する方はどこへ行いかれたのでしょう」と尋ねられます。

女性は、「私は愛する方のもの、私の愛する方は私のもの」(6:3)と答えます。

これは、悔い改めを表していると考えることができます。

イスラエルは、神が再び自分たちの近くにおられることに気づいたのです。

エズラとネヘミヤの時代にも、人々は悔い改めて集まり、律法と聖書に立ち返りました。

神は今も、ご自分の民を神のもとへ戻るように呼び続けておられます。

5.再会――契約の関係が回復する(6:13~8:14)

6章13節の「帰れ。帰れ。」という言葉は、預言者や周囲の者たちがイスラエルに「神のもとへ戻りなさい」と呼びかけたことを表していると考えることができます。

その後、女性は讃えられます。これは、イスラエルの霊的な生活が回復したことを表しています。

10節では、イスラエルが「私は愛する方のものです」と答えます。

神との関係が回復したのです。

7章11節などは、エデンの園で人間が神とともに歩いていた、親しい関係を思い起こさせます。

そして雅歌は、次の言葉で頂点に達します。「愛は死のように強い」(8:6)という表現がされています。

そして最後は、「私の愛する方よ。急いで(来て)ください、」(8:14)という、愛する人を待ち望む言葉で終わります。

結論

雅歌は、理解するのが難しい本です。しかし、神とイスラエルとの関係、そして私たち自身の信仰の歩みという視点から読むと、大切な意味が見えてきます。

ここでは、三つのことを覚えておきたいと思います。

1.神は愛し続けてくださる

神がご自分を私たちに示してくださらなければ、私たちは神を知ることができません。

私たちが神と契約を結ぶとき、神の恵みが私たちに希望と永遠の命を与えてくださいます。

私たちが失敗しても、神は私たちを導き、愛を示し続けてくださいます。

私たちの人生の歩みは、いつも平和で順調とは限りません。

それでも、神の愛の御手が私たちとともにあることを信じて、安心して歩んでいくことができます。

2.神による救い――イエス・キリストの働き

ユダヤ教では、雅歌は伝統的に過越祭の時に読まれます。それは、イスラエルの民がエジプトから救い出されたことを表しています。

クリスチャンにとって、このことは、神の小羊であるイエス・キリストの十字架の上での贖いお業による私たちの救いを指し示しています。また、キリストの花嫁である教会との結びつきも表しています。

神が望んでおられるのは、私たちとの関係を回復し、私たちをご自分との交わりの中に入れることです。

この回復はすでに始まっています。しかし、それが完全に実現するのは、まだ先のことです。

3.神の救いが完全に実現する日

雅歌は、関係が回復したところで終わるのではありません。「急いで来てください」という呼びかけで終わります。

私たちと神との関係は、これで終わりではありません。私たちはこれからも神を待ち望み、神が来てくださることを願い続けます。

これは、パウロが1コリント16章22節で語っていること、そしてヨハネが黙示録22章20節で答えている、

「主イエスよ、来てください」という言葉にもつながっています。

 

雅歌は、出会い、神から離れ、悔い改め、そして回復する物語です。

それは、回復して満足しきっている、信仰の強い人の物語ではありません。渇いているとき、道に迷ったとき、傷ついているときにも、神から離れず、神にしがみつこうとする人のための物語です。

雅歌を通して、神が決して私たちを見捨てず、変わらず愛してくださることを思い出すことができますように。

そして、私たちの心がさらに神を求め、神を待ち望むものとなりますように。

合同礼拝(音声はありません)

 

聖書箇所:2列王記 2:19-22、5:1-14

説教題:神の業

 

序論

旧約聖書の預言者の中で、エリヤとエリシャはモーセに次いで多くの奇跡を行った人たちです。どちらも食べ物を増やしたり、死んだ子供を生き返らせたりしました。今回は、エリシャの奇跡を二つ取り上げて考えてみたいと思います。エリシャは主に北王国で活躍しました。

 

本論

一つ目は、2列王記2章19節―22節の奇跡です。エリコの町にの人たちが、エリシャに助を求めてやってきました。エリコの水が悪くて、女たちは流産に悩まされているというのです。どうして水が悪かったのかはわかりません。体に悪い物質や金属が溶け込んでいたからかもしれません。あるいは、わるいバクテリアが繁殖していたのかもしれません。

  相談を受けたエリシャは、エリコの水源に行って、塩をまきました。そして、それから水による流産や病死は亡くなりました。

 

二つ目は、2列王記5章1節から14節の奇跡です。ナアマンというシリアの将軍が、重い皮膚病にかかっていました。ナアマンの妻の召使は、イスラエルから連れて来られた若い娘でした。彼女はエリシャが神の預言者で奇跡を行うことを知っていたので、サマリヤ(北王国の首都)にいる預言者に会いに行けばきっと病気が治ると進言しました。

  ナアマンがエリシャに会いに行くと、ヨルダン川に体を7回浸しなさいと言われました。ナアマンは腹を立てました。ヨルダン川は茶色く濁った川です。シリアのアマナ川やパルパル川の清流の方が、皮膚の治療にはもっと良いはずです。しかし、部下に説得されて、彼はエリシャの言う通りに体をヨルダン川に7回浸しました。すると、皮膚が若い子供の皮膚のようにきれいになりました。彼の皮膚病が治ったのです。

 

さて、ここで考えてみたいことがあります。どうしてエリコの水質は良くなり、どうしてナアマンは皮膚病が治ったのでしょうか。科学的に考えれば、水源に器一杯の塩を振りまいても水質が改善されるわけがありません。また、茶色く濁った水に体を7回浸したら皮膚病が治ったとしても、科学的に説明はつきません。この、科学的には説明がつかないということの意味を、考えなければならないと思います。

  これらの奇跡に科学的説明がつかないのは、それが、人知を超えた神の業であることを示すためになされたからです。食べ物を増やすのは、モーセが荒野で神に祈ってマナを降らせていただいたように、神が不思議な力を示してその力を示すためです。だからイエスもパンを増やして神の遣わされたメシヤであることを証明しました。神は科学という小さい測りで理解するべき存在ではありません。神は無からすべての理を作り出された方です。科学の範囲を超えたことがおできなるのです。逆に言えば、科学の範囲を超えたことができなければ、神と認めるに値しないのです。

  キリスト教は、イエスの処女降誕、復活という非科学的な教理があるから信じられないと言われることがあります。神は非科学的に決まっています。科学を越えた存在だからです。超科学的と言ってもよいでしょう。

 

まとめ

  私たちは、神がどのような方なのか、そのご性質を時々確認する必要があります。そして、私たちは信仰によって生きていることを確認しなければなりません。聖書の奇跡の物語を読む時には、かならずそこに理由があり、神の栄光を現していることを覚えなければなりません。

礼拝音声は有りません

 

聖書箇所:使徒の働き 4:23-31

説教題:信仰者の祈り

 

 

序論

まず、物語の流れを振り返ってみましょう。

ペテロとヨハネは、神殿の門のところで、生まれつき足の不自由な男性を癒しました。多くの人々が驚いて集まってくると、二人は、イエスが神の御子であり、救い主であることを証ししました。その証しを聞いた宗教指導者たちは困惑し、二人を捕らえて牢に入れました。そして、これ以上イエスについて宣べ伝えないよう厳しく脅しました。しかし、二人はこう答えました。

「神の前で、あなたがたに聞き従うことが正しいのか、それとも神に聞き従うことが正しいのか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(4:19–20)二人は釈放され、信徒たちの共同体のところへ戻りました。そこは、マルコと呼ばれるヨハネの母マリアの家だった可能性もあります。

本論

23節                                                       ペテロとヨハネは自分たちの家に帰るのではなく、仲間たちのところへ戻りました。そして、宗教指導者たちから言われたことを「すべて」報告しました。イエス・キリストのメッセージを伝えたために二人が経験したことは、仲間の信徒たちにとっても重要なことでした。キリストのからだである教会として、彼らは互いに励まし合う必要がありました。クリスチャンは、困難な状況の中でも互いに支え合います。この報告を聞いた彼らは、祈りへと導かれました。私たちも祈りの課題を分かち合い、心を一つにして互いのために祈ります。また、牧師や宣教師のためにも祈ります。

24–30節 では、彼らがどのように祈ったのか、もう少し詳しく見てみましょう。

24節

第一に、彼らは不平を言うのではなく、心を一つにして、声を上げて神に祈りました。私たちも彼らの模範に倣うべきです。

第二に、彼らの祈りは信仰の告白から始まりました。彼らは、神がすべてのものの創造主であり、それゆえ、すべてのものを支配しておられる方であると告白しました。この告白は、神への賛美とも見ることができます。

25–26節

第三に、彼らは神の啓示である聖書を通して世界を見ていました。そして、聖書が聖霊の導きによって書かれたものであることも認めていました。彼らは詩篇2篇1–2節を引用しました。

27–28節

彼らは、ヘロデ、ポンテオ・ピラト、ローマ兵たち、そしてユダヤ人の群衆を、聖書の光で見ていました。「油注がれた者」とは、ヘブライ語では「メシア」、ギリシャ語では「キリスト」を意味します。詩篇2篇は、メシアについて預言した箇所です。

ユダヤ人議会によって不当に罪に定められたイエスに対して、ピラトが下した判決は、十字架による死でした。彼らは、これが旧約聖書の預言の成就であると信じていました。そして、それは神のご計画に従って起こったのだと理解していました。ですから、彼らは祈りの中でこう告白しました。(28節を確認してください。)彼らが、キリストの復活、命令、昇天、そしてペンテコステの日における聖霊の降臨についても念頭に置いていたことは確かでしょう。

29–30節

それでも宗教指導者たちは、クリスチャンを迫害することによって、神とイエス・キリストに逆らい続けていました。そこで彼らは、神に彼らの脅迫を顧みてくださるよう願いました(KJVでは「彼らの脅迫をご覧ください」)。しかし、彼らの関心は、これ以上迫害されないようにすることではありませんでした。彼らの関心は、イエスから与えられた使命、すなわち、「あなたの御言葉を語ること」にありました。彼らは神の主権を信頼していました。自分たちだけの力では何もすることができないと知っていたので、彼らは、イエス・キリストの証人として語り、その使命を果たすために、大胆さと神の助けの御手、そして神の力を求めました。私たちは、イエスがどのようなお方であるかを証しします。この使命は、今日の私たちを含め、信徒の共同体である教会に託されています。彼らは、神の力を信じ、神の御言葉を語るという使命を果たしたいと願って祈りました。           31節                                                       神が彼らの祈りに答えられたことが分かります。私たちは、この礼拝堂が揺れるのを実際に感じることはないかもしれません。しかし、私たちが神の御言葉を語ろうとするとき、神は私たちにご自身の力を与えてくださいます。彼らはすでに、ペンテコステの日に聖霊が降られるという経験をしていました。しかし、それで終わりではありませんでした。神は再び彼らを聖霊で満たされました。必要なとき、神は私たちにも何度でも新しく力を与えてくださいます。そして彼らは、実際に神の御言葉を大胆に語りました。おそらく彼らは、集まっていた場所から出て行き、福音を分かち合い、その後も日々の生活の中でそれを続けていったのでしょう。

 

まとめ                                                    

今日の聖書箇所を通して、皆さんに五つのことを心に留めていただきたいと思います。

1.教会は一つに集まり、迫害の現実を分かち合い、一つの心で神に祈ります。

互いの重荷を分かち合い、同じ使命を心に留めます。

2.彼らは、神こそ真の主権者であることを認め、神を信頼し、神を賛美し、神に祈ります。

3.彼らは、聖霊によって書かれた聖書を信頼します。

そして、聖書の光に照らして現在の状況を見極め、イエスが救い主であることを信じて祈ります。

4.彼らは、迫害がただ終わるように祈ったのではありません。迫害のただ中にあって、自分たちの使命を果たすための力を求めて祈りました。

  • その使命とは、神の御言葉を宣べ伝えることです。すなわち、イエスが救い主であることを証しし、福音を宣べ伝えることです。
  • 彼らは、自分たちだけの力ではこの使命を果たすことができないと認めていました。だからこそ、大胆に語る力と、聖霊の力を求めたのです。

5.彼らの使命は、イエスが命じられたとおり、イエスを通して与えられる救いの福音を宣べ伝えることでした。だからこそ、彼らはイエスの権威を認め、イエスの御名によって祈りました。

 

☆ 神の御言葉を語ることは、私たちの使命です。そのために祈りましょう。

聖書箇所:ローマ 3:9⁻20
説教題:義人は一人もいない


序論                                     

ローマ書3章の冒頭で、パウロは、ユダヤ人であるというだけで、どのような生き方をしていても救われると考えていた一部のユダヤ人の誤った理解を指摘しています。その中でパウロは、彼らに神の御言葉、神の正しい裁き、そして神への忠実さの重要性を思い起こさせています。  

今日の箇所であるローマ3:9–20では、パウロは引き続きユダヤ人に語りかけ、ユダヤ人も神の裁きから免れることはないと明らかにしています。なぜなら、神の御前に義である者は一人もいないからです。パウロの説明を通して、その意味をさらに深く理解していきましょう。

本論

1.すべての人は罪の下にある(9–12節)

パウロは、ローマ2:6で、「神は、一人ひとり、その行いに応じて報いられます」と述べています。(詩篇62:12、箴言24:12参照。)そして、神はえこひいきをなさらないので、ユダヤ人も神の裁きを免れることはないと明らかにしています。

パウロは、神の御言葉を与えられていることがユダヤ人にとって特権であると認めています。しかし同時に、彼らに旧約聖書を繰り返し指し示し、すべての人が罪の下にあることを思い起こさせています。ローマ3:10–12では、詩篇14:1–3を引用しました。(伝道者の書7:20参照)

ここでパウロが繰り返している「~はいない」という表現に注目してください。彼は「義人はいない」で始め、最後には強調するように「一人もいない」と述べています(10、12節)。これは、人間が例外なく罪深い存在であることを強調しています。

10節――「義人はいない」。
パウロは、神の御前における人間の立場について語っています。個人的な善良さや宗教的な身分を根拠として、自分は義であると主張できる人は誰もいません。                                            11節――「悟る者はいない」。
これは根本的には、神を理解することについて語っています。私たちは自分自身の力だけでは、本当の意味で神やその道を理解することができません。私たちは神の啓示と恵みに頼る必要があります。                                       「神を求める者はいない。」
ここでいう「求める」には、神を熱心に探し求める、真剣に追い求めるという意味があります。パウロが言いたいのは、人間は自分自身の力によって、本来あるべき仕方で神を真に求める者はいない、ということです。                               12節――「善を行う者はいない」。
ここで使われているギリシャ語には、善良さ、親切、慈愛という意味があります。パウロが語っているのは、単に善人に見えることではなく、本当の意味で善を行うことです。

私たちの善い行いでさえ、神の御前で私たちを義とすることはできません。キリストから離れては、私たちの善行によって救われることはありません。イエスが言われたとおりです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)。

パウロの結論は明確です。ユダヤ人であっても異邦人であっても、義人は一人もいません。だからこそ、すべての人が神の憐れみと神の義を必要としているのです。

2.御言葉は、すべての人が罪深いことを証言している(13–18節)

パウロは旧約聖書から繰り返し引用し、神の御言葉そのものが、すべての人が罪深いことを証言していると示しています。これはユダヤ人にも異邦人にも当てはまります。

まずパウロは、罪深い心から出てくる罪深い言葉について説明します(13–14節)。喉、舌、唇、口は、他人を傷つけ、破壊するために用いられることがあります。私たちの言葉には、たとえ巧妙な形で表現されていたとしても、悪意や偽りが含まれることがあります。

それは、まむしの毒のようなものです。その影響は徐々に広がっていくことがあります。また時には、その悪意が、呪いや悪口という形であからさまに表されます。(箴言12:18、エペソ4:29参照。)

続いてパウロは、他人を破滅へと導く罪深い行動へと話を進めます。たとえ実際に人を殺すことがなくても、私たちは時に、他人を傷つけるために、素早く、また意図的に行動してしまうことがあります。その結果、破滅や苦しみが生じます。

憎しみ、恨み、後悔は、双方を苦しめることがあります。罪深い行動は、平和な人間関係をも破壊します。マタイ5:9は、これとは明確に対照的な、神の御国に属する生き方を示しています。

ローマ3章のこれらの節は、人間の身体のさまざまな部分が持つ、比喩的な意味での汚れや邪悪さを描写しています。そして、人間の身体のあらゆる部分が、私たちの罪の証拠となり、私たちを有罪とすることに加担していることを示しています。

しかし何よりも根本的な問題は、神への恐れがないことです。(申命記10:12–13、詩篇111:10、伝道者の書12:13参照)

それこそが、罪の本質なのです。

3.律法は、私たちに弁解の余地を与えない(19–20節)

この箇所のまとめとして、パウロは律法に話を向けます。これは、パウロがユダヤ人を念頭に置いているからかもしれません。すでに述べたように、ユダヤ人に与えられていた特権は、神の御言葉を持っていることでした。

ユダヤ人は律法の下にありますが、律法が語るメッセージは、世界中のすべての人に関わるものです。

ここでパウロは、律法の役割について説明しています。ユダヤ人は律法を持っていること、そして律法を守っていることを誇りとしていました。しかし実際には、律法によって救われることはできません。

ヤコブ2:10は、その理由を理解する助けとなります。『律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』

律法は、ユダヤ人も異邦人も、神の義に到達することができないということを私たちに認識させます。ですから、パウロは19節でその結果を述べています。

ヨブ40:2におけるヨブの告白は、私たち自身の告白でもあるべきです。『ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。』

しかし、それではどうなるのでしょうか。私たちにはもう希望がないのでしょうか。

パウロの希望のメッセージは、21節から明らかになり始めます。

まとめ本日

の聖書箇所の主旨はこれまで見て来たとおりです。                        

  1. すべての人は罪の下にある

  2. 御言葉は、すべての人が罪深いことを証言している

  3. 律法は、私たちに弁解の余地を与えない

ローマ3:9–20は、完全に希望がないように聞こえるかもしれません。しかし、この箇所にも希望があります。

神は私たちの罪を明らかにされます。それは、私たちが自分自身の状態を認め、自分の義に頼ることをやめ、神が与えてくださる義を受け取る準備をするためです。

ここには、いくつかの希望の要素があります。

1.神は私たちに真理を示してくださった

神の御言葉は、私たち自身が気づいていなかった霊的な状態を明らかにします。

2.神は私たちに、私たちの必要を示してくださった

律法は私たちの罪を明らかにし、自分自身の義に対する確信を取り除きます。そして、私たちには神の恵みが必要であることを教えてくれます。

3.神は私たちを福音へと備えてくださった

律法は、ユダヤ人と異邦人を同じ場所へと導きます。すなわち、**「罪があり、自分自身を救うことができない」**という場所です。

そのようにして私たちは、ローマ3:21以降に示される希望、すなわち、イエス・キリストへの信仰による救いを聞く準備が整えられるのです。

礼拝音声

 

聖書箇所:ローマ 3:1-8
説教題:心に留めるべき三つのこと

 

序論

ローマ書2章の終わりに近いところで、パウロは、神が人の心をお裁きになることを強調しています。したがって、ユダヤ人も異邦人も同じ基準によって裁かれ、神は民族の違いによってえこひいきをなさいません。

ローマ書3章は、想定上のユダヤ人の反論者が投げかける質問から始まります。パウロはここで、ユダヤ人やギリシャ人の伝統においてよく用いられていた「ディアトリベ」と呼ばれる修辞的な方法を用い、自分の教えに対して考えられる反論を取り上げ、それに答えています。このような書き方は、私たちには少し馴染みがないかもしれません。しかし、この方法によってパウロは、誤った論理を明らかにし、自分の主張をより明確にしています。

このことを念頭に置いて、今日の聖書箇所、ローマ書3章1節から8節を見ていきましょう。

本論

1~2節

もし神が人の心をお裁きになり、民族の違いによってえこひいきをなさらないのであれば、ユダヤ人であることには、いったいどんな利点があるのでしょうか。

これが、想定上の反論者が最初に投げかける質問です。

パウロは、「あらゆる点において、大いにあります」と答えます。ユダヤ人であることには、多くの特権がありました。パウロは「まず第一に」と言っていますが、ここではそのうちの一つだけを挙げています。(聖書箇所を読む。)

第一の特権は、「神のことばを委ねられた」ということです。そこには、神の契約の約束、預言者を通して語られた神のことば、そしてイスラエルの歴史を通して記録された神の啓示が含まれています。広い意味では、旧約聖書全体を指していると言えるでしょう。

このような形で神の啓示された御言葉を委ねられた民族は、ほかにはありませんでした。しかも、民族の歴史を通して神の恵みを体験してきたのです。これは、ユダヤ人であることの大きな特権でした。そのような恵みを軽視したり、無視するようなことは決して有ってはなりません。
数えて見よ主の恵みという賛美歌があります。私たちクリスチャンも、神の恵みを覚え、ないがしろにすることなく感謝しつつ歩まなければなりません。

3~4節

神は恵みによって、ご自分の契約と約束をユダヤ人に委ねられました。そこで、想定上の反論者は二つ目の質問をします。

もし、ユダヤ人の中に不忠実な者がいて、神によって裁かれたのだとしたら、それは神が契約の約束を守ることに失敗したということなのでしょうか。神の契約はユダヤ人を祝福するものだったはずなのですから、彼らが不忠実だったことで、神ご自身も不忠実になったということにならないでしょうか。

パウロの答えは明確です。「絶対にそんなことはありません!」

問題は神の忠実さにあるのではなく、人間の不忠実さにあります。神の契約の恵みが、神の正しい裁きを無効にすることはありません。神の民が不忠実であったとしても、神は忠実であり、義なる方であり、真実な方であり続けます。

そしてパウロは、詩篇51篇4節を引用します。これは、バテ・シェバとの罪を犯した後のダビデの告白です。ダビデは、神が自分を裁かれることは正しいと認め、神が正しい方であり続けることを告白しています。ダビデ王を誇るユダヤ人であるならば、当然その詩編も知っており、ダビデの告白に倣う者でなければなりません。そういう訳で、これはパウロの主張を強く裏付けています。人間の不忠実さによって、神が不忠実になることは決してありません。

5~6節

想定上の反論者は、三度目の反論を続けます。

彼の論理は巧妙です。もし私たちの不義によって、かえって神の義が明らかになるのだとしたら、私たちの罪によって神が益を受けることになるのではないでしょうか。そして、私たちの罪によって神の栄光がさらに大きく現されるのなら、どうして神が私たちを罰することが正しいのでしょうか。

このように彼は、神の義を人間の不義の言い訳として利用しようとしています。

パウロは、これを人間的な議論と呼んでいます。つまり、仮定に基づいた不合理な論法です。しかし、人がどのような言い訳を持ち出したとしても、神にはこの世界を裁く権利があります。異教徒であっても、神をそういう存在として見ていることが殆どであり、常識ではないかと思われます。もし神がこの世界を正しく裁くことがおできにならないのなら、神を本当の意味で世界の裁き主、そして神と呼ぶことはできません。

7~8節

パウロは、基本的に同じ議論を繰り返します。ただし、今度はそれを個人に当てはめた形で述べています。

「もし私の偽りによって神の真実がいっそう明らかになり、神の栄光が増すのなら、どうして私はなお罪人として裁かれるのでしょうか。」

この反論を繰り返すことによって、その主張の矛盾と不合理さが、よりはっきりと示そうとしています。

人間は、自分の罪から神が良い結果や栄光をもたらされることを理由にして、神の裁きを裁判にかけることはできません。神は正しい裁き主であり続け、私たちは自分の罪について責任を負う者であり続けます。

このような考え方を突き詰めた極端な結論が、「善が生じるために、悪を行おう」というものです。

これはまさに、パウロが否定している主張です。どうやら、ある人々は、「パウロがそのようなことを教えている」と言って、パウロを中傷していたようです。しかし、パウロはそのようなことを一度も言っていません。

実際にそのような考え方をしていた人々も、また、パウロがそのように教えていると偽って非難した人々も、神のさばきを受けるに値する者でした。

まとめ

ここまでの一連の反論とそれに対するパウロの答えを通して、私たちは、神がどのようなお方であるか、そして私たちが神の前でどのような責任を負っているのかを、より明確に見ることができます。

最後に、三つのポイントにまとめたいと思います。

1.神の御言葉と、神の救いの計画を心に留める

神の御言葉を委ねられたことは、ユダヤ人にとって大きな特権でした。そして神の恵みによって、その御言葉は私たちにも受け継がれています。

ですから、私たちは神の契約について、また、イエス・キリストによって成就された神の救いの計画について、よく知る者となるべきです。

2.神の義と裁きを心に留める

私たちは決して、神の裁きが不義であると神を非難してはなりません。

神は主権者であり、義なる方です。そして、神の裁きは常に正しいものです。

人間には、神の義を裁判にかける根拠などなく、またそんな立場にもありません。

3.神の召しと、神に対する私たちの忠実さを心に留める

神はユダヤ人を御自分の民として選ばれました。それは、諸国の民が彼らを通して神の道を見るためでした。

同じように、クリスチャンもイエス・キリストの証人となるように召されています。

ユダヤ人は、その不忠実さのゆえに裁かれました。しかし同時に、神の契約に対する忠実さは、悔い改めを通して回復する可能性があることも示しています。

ですから私たちも、神に対して忠実であり続け、イエス・キリストを信じる信仰によって歩み続けなければなりません。