Presbyterian Church in Western Australia の勤続10年者の規定により森本牧師は長期休暇に入り、ブログの更新を休止します。
日本語礼拝はビデオ礼拝となります。
この期間、第三日曜日は、聖餐式を守るために、英語部との合同礼拝となります。
午前10:30 開始です。
主の恵みと平安をお祈りいたします。
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パース日本語キリスト教会は、オーストラリア長老教会西オーストラリア中会に所属するHenderson Memorial Presbyterian Churchの日本語部です。日本長老教会と協力関係に有ります。
所在地 101 Kimberley Street West Leederville 6007 WA
集会
日曜礼拝 午後1時より(第五日曜日は合同礼拝のため午前10時半より)
聖書研究会 火曜日午後1時より(現在休止中です。ブログに研究ノートを掲載します。)
プレイグループ 木曜日午前10時より(就学前のお子さんとお母さんのためのグループです。)
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関連サイト等
Henderson Memorial Presbyterian Church
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2001年にアメリカ人宣教師Stephen Young師によって開拓されました。
Stephen Young師は2013年に帰国し、テネシー州で日本語礼拝の開拓を始めました。
Stephen Young師の現在の奉仕は、こちらと、こちらからご確認いただけます。
2015年10月森本実牧師が就任しました。
献金でご支援いただければ幸いです。
ー銀行口座が変更されましたー
Westpac (ABN 25217485736)
BSB 036-019
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礼拝音声はありません
聖書箇所:使徒行伝 4:1-22
説教題:福音宣教の力
序論
直前の3章で、ペテロとヨハネは午後3時、祈りの時間にエルサレムの神殿に上っていきました。そこで、生まれつき足の不自由だった人を、神は彼らを通して癒されました。人々が驚きに満たされ、彼らの周りに集まる中、ペテロは大胆に、神が死者の中からよみがえらせたメシアであるイエス・キリストを信じることによる罪の赦しを宣べ伝えました。この宣言が、今日の箇所に記されている出来事へとつながっていきます。
本文
1–4節:
何か異変が起きていると感じた祭司たち、宮の守衛長、そしてサドカイ派の人々(神殿の秩序を管理していた者たち)が様子を見にやって来ました。彼らの多くはサドカイ派であり、死者の復活を信じていませんでした。使徒たちのメッセージに動揺した彼らは、すでに夕方だったため、ペテロとヨハネを逮捕し、翌日まで拘留しました。しかし、ペテロの宣教の結果は驚くべきものでした。その言葉を聞いた多くの人々が信じ、男性だけで約五千人にまで増えました。エルサレムの人口が約2万5千から8万5千人であったと考えると、実に6〜20%ほどの人々がイエス・キリストへの信仰に至った可能性があります。
5–12節:
この出来事は、エルサレムの宗教指導者たちにとって深刻な問題となりました。尋問に集まった人々を見ると、イエスが十字架にかけられる前の裁判の場面を思い起こさせます(6節)。ペテロとヨハネは神殿で教える正式な許可を受けていなかったため、指導者たちは、彼らがどのような力や権威によって行動したのかを問いただしました。するとペテロは聖霊に満たされて答え、この癒しはイエス・キリストの御名と権威によって行われたと宣言しました。そして再びイエスの復活を語り、詩編118編22節を引用して、イエスが神の長い救いの計画の成就であることを示しました。1世紀において「隅の親石」とは、建物の完成を示す最後の石(要石:アーチやドームの頂点に最後にはめる石)を指すこともありました。エルサレム神殿を完成させる最後の石のイメージがありました。このようにしてペテロは、12節にあるように、「救いは他の誰にもない」と明確に宣言しました。イエスを十字架につけた指導者たちに囲まれていながらも、彼は恐れず、退くこともありませんでした。
13–18節:
ペテロとヨハネの証言と態度を通して、議会は彼らがイエスの弟子であることを認識しました。彼らは、ペテロとヨハネが教育を受けていない普通の人であることに驚きましたが、それにもかかわらず大胆で雄弁に語っていました。ここでいう「教育を受けていない」とは、ギリシャの弁論術の訓練を受けていないとか、サドカイ派やパリサイ派の権威の下で学んでいないという意味です。彼らの勇気と大胆さは、恐れず自由に語る姿勢を示しています。これは明らかに、イエスが約束されたように聖霊によって力づけられていたからです(ルカ12:11–12参照)。さらに、癒された人も彼らと共に立っていました。議会は、彼らにイエスの名によって語ることを禁じ、これ以上公の混乱を引き起こさないよう警告するしかありませんでした。
19–22節:
ペテロとヨハネの返答は、議会の人々にとって馴染みのあるものだったはずです。旧約の預言者たちやギリシャの哲学者たちでさえ、「人に従うより神に従うべきである」と強調していました(ダニエル3:16–18参照)。彼らの答えは、聖書全体に一貫する原則を反映しています。また、癒された人が彼らと共に立ち、人々は神を賛美していました。そのため議会は使徒たちを罰することができませんでした。ルカは、この癒しが真に神の御業であることを示すために、その人の年齢も記しています。
まとめ
福音宣教の力はどのようなものでしょうか。
1.キリストの復活を中心に
3章のペテロの説教と、4章での弁明(宣教)は、キリストの復活に基づいています。もしイエスが死者の中からよみがえらなかったなら、旧約で約束されたメシアではありませんし、その神性も証明されません。パウロも第一コリント15章でキリストの復活の重要性を強調しています(3節ー5節、14節、19節参照)。イエスは神の救いの計画の成就であり、私たちが救われる名は他にありません。足の不自由な人の癒しも、福音の宣教も、すべてイエス・キリストの御名と権威によって行われました。
2.聖霊によって動かされて
イエスは弟子たちに聖霊の力のことを予め告げておられました。(使徒1:8参照)。福音宣教は聖霊の力によって進められました。その結果、彼らはギリシャの弁論術を学んだかのように大胆に語ることができました。彼らは聖霊に助けを求めたのではなく、必要なときに常に聖霊が力を与えてくださったのです。その聖霊があなたの内にも住んでおられることを信じ、信頼してください。
3.証し・信仰・賛美へとつながる結果
イエス・キリストの福音は、まず使徒たちと弟子たちに委ねられました。ペテロとヨハネはイエスの証人として立ち、福音を宣べ伝えました。その結果、多くの人々が信仰に導かれ、合計で約五千人に達しました。多くの人が神を賛美していたため、議会は彼らを罰することができませんでした。反対に直面しながらも、イエス・キリストの福音は絶えず広がり続けたのです。
日本語部は2001年4月15日、復活の主日に最初の礼拝をささげました。
この日曜日は、25周年記念賛美礼拝をささげ、創立期に関わりの有った方々にも出席していただき、幸いな一時となりました。
聖書箇所:ローマ 2:17-29
説教題:神に認められることを求めよ
序論
ローマにいるユダヤ人クリスチャンに対するパウロの叱責は続き、彼らが異邦人信者を軽視していることに言及しています。彼らは自分たちを優れていると見なしていましたが、神はえこひいきをなさらず、すべての人が等しく御前でさばかれます。2章16節が思い起こさせるように、神は私たちの隠れた部分—良心や思い—をさばかれます。中心的な問題は、私たちが本当にイエス・キリストへの信仰によって生きているかどうかです。パウロはこの箇所を次のように締めくくります「その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(29節後半を参照):「神からの称賛」を求める「そのような人」であるべきだということです。ここでのパウロの議論を通して、どのように神の承認を求めるべきかを考えてみましょう。
本論
1. 霊的知識を実践に移すことによって(17〜21節)
パウロは17節から21節までの5節にわたる長い一文を書いています。その主節は「あなたは自分自身を教えないのですか」というものです。彼はローマにいるユダヤ人クリスチャンに語りかけています。四つの「もし〜ならば」という節を通して、彼らが律法をよく知り、神との関係や選ばれた民であること、そして異教の世界に対する光であることを誇りにしている様子が示されています(背景にある聖書箇所についてはイザヤ42:6、44:8参照)。しかしパウロの指摘は明らかに、彼らがその霊的知識を実践していないことを意味しています。知っていることと実行することは別です。実行しなさい。
2. 神の御名を汚さないよう注意することによって(21〜24節)
パウロは四つの問いを通して、教会にいるユダヤ人クリスチャンの不正を明らかにします。
①盗み—窃盗とは限らず、搾取や贈収賄などの腐敗も含まれると思われます。
②姦淫—より広くは偶像礼拝や霊的な不誠実さを指します。
③神殿をかすめること—他宗教の偶像礼拝から利益を得ること、さらにはエルサレムの神殿からの利益も含まれます。一部のユダヤ人は異教の神殿から金や銀、装飾品を取り出して保持していた可能性があります。ヨセフスは紀元19年のフルウィウス献金詐欺の事例を記録しています。(ユダヤ教に改宗したローマの貴婦人から、エルサレム神殿への奉納を名目に紫布や金銀をだまし取ったユダヤ人がいました。皇帝ティベリウスの知る所となり、ユダヤ人追放令が出ました。)
④神を辱めること—これら上記の不正の結果です。異邦人の観点から見ても、彼らの行いは道徳的に誤っています。
パウロはギリシア語旧約聖書からイザヤ52:5を引用して、この告発を強めています。ユダヤ人である彼らはエゼキエル36:20のような聖書を思い起こすべきでした。私たちも今日、注意が必要です。霊的確信やキリストへの信仰を語るとき、自分の行動や態度がイエス・キリストの証人としてふさわしいかどうかを考えるべきです。
3. 御霊による内面的変革を求めることによって(25〜29節)
ユダヤ人クリスチャンは外面的な条件やしるしを誇りとしていました。律法の知識や割礼によって自分たちは義とされると考えていたのです。しかしここでパウロは衝撃的な現実を明らかにします。律法に従わないなら、割礼には何の価値もありません。彼らの割礼は無意味になるのです。パウロはすでにこの原則を述べています(1:17、2:16参照):重要なのはキリストへの信仰だけです。ユダヤ人も他のすべての人と同様に、神によって等しくさばかれます。結論として29節でパウロは、心の割礼こそ真の割礼であり、神からの称賛を求めるべきだと教えています。悔い改めと、聖霊に導かれた心の変化は、クリスチャンとして継続的に実践すべきものです。キリストへの信仰と聖霊による心の刷新によって、私たちは神の民となります。特定の国に生まれたことや家系は、神の前で人を義としたり優れたものにしたりはしません。聖霊の助けと導きを求めつつ、従順によって神の承認を求めましょう。
まとめ
1. 霊的知識を実践に移すことによって(17〜21節)
伝統的にユダヤ人は5歳頃から律法を学び始めます。13歳になると戒めを守る義務を負い、会堂で公に聖書を朗読し始めます。このような背景から、彼らは律法の知識に自信を持っています。しかし、その知識も生活に適用されなければ無意味です。私たちも聖書の知識を深め、それを実践する必要があります。読み、そして行いましょう。
2. 神の御名を汚さないよう注意することによって(21〜24節)
ローマ書のユダヤ人クリスチャンのような行動を取らなくても、私たちは不注意になることがあります。キリストへの信仰と福音の真理をしっかり持っていても、それを高慢に表してはなりません。そのような態度は神の御名を辱めることになります。最近では、寺社を清めるといって油を撒いたクリスチャンが逮捕されたと言う報道がありました。このようなことが神の御名を汚すことになります。
3. 御霊による内面的変革を求めることによって(25〜29節)
人からの称賛を求めるとき、私たちは知識や能力、地位や業績に頼りがちです。しかし私たちの義と善は、ただイエス・キリストの恵みによるものです。聖書を通して神の御心を求め、聖霊に頼りましょう。御霊による内面的変革を絶えず目指し続けましょう。聖霊との交わりを重視しましょう。それは、聖霊の霊感によって書かれた聖書を読むこと、祈ることによって深められるのです。
礼拝音声
聖書箇所:ローマ人への手紙 2:1–16
説教題:神のさばきの前に霊的エリートは存在しない
序論
ローマ人への手紙1章17節で、パウロは「義人は信仰によって生きる」と語っています。そして1章の残りの部分では、不義によって真理を抑え込む人々の姿を描いています。2章が「それゆえに」で始まるのは、その不義に対する神の怒りと結びついていることを示しています。しかしここで、「彼ら」から「あなた」へと語りが変わります。突然、より直接的に感じられるのです。これは、想定された聞き手に語りかけるパウロ特有の対話的修辞の一部です。では、彼は誰に語っているのでしょうか。議論の展開、特に9節以降を見ると、ユダヤ人クリスチャンを念頭に置いているようです。この点を踏まえて、パウロの語っている内容を詳しく見ていきましょう。
本論
① すべての人は罪の下にあり、悔い改めへと召されている(1–5節)
ローマの教会には、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方がいました。パウロの論旨から判断すると、一部のユダヤ人クリスチャンは自分たちを異邦人クリスチャンよりも優れていると考えていたようです。彼らは他人の罪深い行いを指摘しましたが、パウロは彼ら自身も同じことをしていると非難しました。彼らは、自分たちがユダヤ人であるという理由だけでさばきを免れると思っていたのかもしれません(3節)。しかし実際には、誰一人として他の人より義である者はいません。神はまだ彼らを罰していませんが、その慈しみと忍耐は罪を正当化するためではなく、悔い改めへと導くためのものです。反対に、悔い改めない心は、自分たちが避けられると思っているさばきを蓄えているのです。罪を犯してもさばきを免れると考える人は、神のあわれみを軽んじていることになります。パウロは、2節に記された真理を故意に無視するユダヤ人に警告しています。ですから、私たちは日々悔い改めの歩みを続けなければなりません(4–5節)。
② 神のさばきは公平であり、行いに応じてなされる(6–11節)
一部のユダヤ人クリスチャンの理解とは異なり、6節に示される基本原則は、神のさばきが各人の行いに基づくということです。パウロは次に、永遠のいのちを受ける者と、神の怒りである永遠の刑罰を受ける者とを対比します。
前者は「善を行う者」です。しかし「善」とは何でしょうか。ある人がイエスを「善い先生」と呼んだとき、イエスは「神おひとりのほかに善い者はいない」と答えられました(マルコ10:17–18参照)。私たちにとっての「善」とは、イエス・キリストへの信仰を通して与えられる神の国とその義を求めることです。したがって、神のみこころを求めることこそ、私たちが追い求めるべき善です。それを行う者には、栄光と誉れが伴います。栄光とは、天において神のいのちにあずかることを意味します。誉れとは、神のさばきにおける神の称賛、報い、そしてその人の真の価値、イエス・キリストによる義人であることの認知を指します。
一方、後者は福音の真理を拒む者です。救い主イエス・キリストを拒むことによって、彼らは神の怒りの下に置かれます(ヨハネ3:36参照)。「まずユダヤ人に、それから異邦人に」という繰り返しの表現は、神のさばきの公正さと公平性を強調しています。こうしてこの部分は、「神はえこひいきをなさらない」(11節)という言葉で締めくくられます。6–11節の構造は、不義な者へのさばきと滅びを強く強調しています。また、神の裁きが公平であることにも目を向けさせています。(図表参照)
③ 神は外面的な立場ではなく、心をさばかれる(12–16節)
ユダヤ人クリスチャンはモーセの律法を持っていることを誇りとしていました。しかし律法そのものが神の国への入場券ではありません。12–15節はこれを明確にしています。律法を持っているかどうかに関わらず、罪を犯すすべての人はさばかれます。律法を持っているだけでは不十分であり、それに従う者だけが義と認められます。しかしここで深刻な問題が生じます。ヤコブ2:10にあるように、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべてを破った者となる」のです。つまり、誰一人として律法を完全に守ることができないため、律法の実行によって最終的に義とされることはできません。
14–16節では、二つの重要な点が示されています。第一に、律法を持たない異邦人が本来律法の求めることを行うとき、彼らの心に律法が記されていることが示されます。これは、律法を持っているという理由だけでユダヤ人が本質的に優れているわけではないことを意味します。第二に、神のさばきは内面に関わるものであり、背景や律法の所有が義を決定するのではなく、神は心をご覧になるということです。
この部分の結論として、パウロは15–16節で天の法廷のイメージを用いています。良心は証人として機能し、私たちの生き方を証言し、思いは私たちを訴えたり弁護したりします。良心や思いは、私たちの内にある隠された秘密です(16節)。サムエル記第一16:7にあるように、人はうわべを見るが、主は心をご覧になります。
ここから重要な真理が導かれます。すなわち、神は人の心の秘密をイエス・キリストによってさばかれるということです。パウロの福音が宣べ伝える通りです。その日、イエスはさばき主であると同時に、神の国とその義を求める者の弁護者でもあります。「私の福音」とは、神の命令によってパウロが宣べ伝えるイエス・キリストの福音を指します。彼が考え出したものではありません。
したがって中心的な問いはこれです。私たちの心の状態はどうでしょうか。私たちは、良心や思いが、天の法廷において、確かにこの人物はイエス・キリストの福音を受け入れたと証言してくれる状態でしょうか。永遠の命につながる善である、信仰告白と、みことばに従うことを実行しているでしょうか。神の国とその義を求めているでしょうか。
まとめ(本文の流れ)
礼拝音声はありません
聖書箇所:マタイ 28:1-7
説教題:復活は確実である
導入
この復活の主日に共に集うことができる恵みを、神に感謝します。今日、私たちが心に留めたい真理は単純です。「イエス・キリストの復活は確実である」ということです。これは単なる宗教的な希望や感情的な慰めではありません。実際に起こった歴史的出来事です。本日はマタイ28章から、なぜ私たちが確信をもって復活は確実であると言えるのか、その四つの理由を見ていきます。
本論
1)復活はあらかじめ告げられていた
マタイ28章で、御使いは墓に来た女性たちにこう言います。
「ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」
注目すべきは「(イエスが)言っておられたとおり」という言葉です。復活は予期せぬ出来事でも偶然でもありませんでした。約束されていたのです。旧約聖書において、神は救いのご計画を示しておられ、イエスご自身も三日目によみがえると繰り返し弟子たちに語っておられました。復活は偶然ではなく、神のご計画の成就であり、その証明です。神は常に約束を守られるお方です。
2)復活したイエスを見た目撃者がいた
マタイ28章9節では、女性たちが復活したイエスに出会い、その足を抱いて礼拝したと記されています。これは現実の、物質的身体的な出会いでした。新約聖書全体を通して、多くの人々が復活したキリストを目撃しており、ある時には約500人が同時に見たとも記されています。もしこの話が作り話であったなら、このように一貫した証言が保たれることはなかったでしょう。多くの証人たちは迫害を受けても決して証言を撤回しませんでした。なぜなら、本当に主を見たからです。
3)番兵たちの偽りの報告は証明できなかった
マタイ28章には、復活を否定しようとする試みが記されています。祭司長たちは番兵たちに賄賂を渡し、「弟子たちが私たちの眠っている間に遺体を盗んだ」と言わせました。しかし、この説明には矛盾が満ちています。もし彼らが眠っていたのなら、どうして分かるのでしょうか。そして最も重要なのは、イエスの遺体は決して見つからなかったということです。もし存在していたなら、復活のメッセージはそこで終わっていたはずです。しかし終わりませんでした。墓が本当に空であり、イエスは復活したからです。
4)十一人の弟子たちは大宣教命令を果たした
マタイ28章の終わりで、復活したイエスは弟子たちにこう言われます。「行って、すべての国の人々を弟子としなさい。」十字架の受難の直前、弟子たちは恐れて逃げ去りました。しかし復活の後、彼らは大胆に福音を宣べ伝え、迫害を受け、多くの者が命をささげました。誰も嘘のために命を懸けることはありません。彼らはそれが真実であったから証ししたのです。その使命は今日もなお、2000年以上経った今も続いています。
結論
復活は確かです。それは神によってあらかじめ告げられ、目撃者によって確証され、否定されながらも決して覆されることなく、弟子たちを変えました。今日、よみがえられたキリストは私たちに命を与えてくださいます。イエスは生きておられます。主が生きておられるからこそ、私たちの罪は赦され、希望があります。あなたにとって復活とは何でしょうか。ただの知識でしょうか、それとも人生を変える真理でしょうか。よみがえられた主は、今も私たちに語りかけておられます。その教えに従い、一歩踏み出して主と共に歩んでいきましょう。
礼拝音声はありません
聖書箇所:ローマ5:6–11
説教題:揺るがない恵み
導入
本日、聖金曜日にあたり、ローマ人への手紙5章6節から11節をともに考えましょう。この箇所には、神が私たちに与えてくださった「良い知らせ」――すなわち、確かで揺るがない恵みがはっきりと示されています。
本論
① 神の愛の性質(6–8節)
(人の状態に関係なく与えられる愛)
パウロは、私たちがまだ「無力」であり、「不敬虔」であったときに、キリストが私たちのために死なれたと語ります。普通、私たちはこう考えます。「信頼できる人なら助けよう」と。しかし、ここで語られている愛はまったく異なります。
たとえば、返済する能力も関係性もない人の莫大な借金を、誰かが全額肩代わりするようなものです。それは人間的には理解しがたい行為です。これこそが、神が示された愛です。私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死なれたのです。
② 救いの根拠(8–9節)
(キリストの御業に基づく確かな土台)
この愛はどのようにして成し遂げられたのでしょうか。それはキリストの死――歴史の中で実際に起こった出来事によってです。聖書は、私たちが「その血によって義とされた」と語ります。これは単なる考えや感情ではありません。法廷を思い浮かべてください。あなたが裁判官の前に立つそのとき、すでに判決は下され、「無罪」と宣告されているのです。結果を待つ必要はありません。決定はすでに下されています。同じように、私たちの救いは未確定のものではありません。十字架によって確定された現実です。主の血がすべてを支払ったのです。
③ 救いの内容(9節)
(実際に与えられているもの)
では、この救いには何が含まれているのでしょうか。この箇所ははっきりと語っています。
私たちは義とされています。
神の怒りから救われています。
神と和解させられています。
それは身分の変化です。かつて敵対していた関係が、平和へと変えられたのです。かつて敵であった者が、今や受け入れられています。私たちは神の民とされたのです。
④ 救いの継続と確かさ(10節)
(未来へと続く救い)
しかし、ここで終わりではありません。パウロは「御子のいのちによって救われるのです」と語ります。
これは、救いが過去の出来事にとどまらないことを意味します。回復した関係を考えてみてください。和解が起こっても、その関係は生き続け、成長していく必要があります。キリストは死なれただけでなく、今も生きておられます。
だからこそ、私たちの救いは続き、未来へと保たれていくのです。私たちは過去の出来事だけで支えられているのではなく、生きておられる救い主によって支えられているのです。
⑤ 救いの結果(11節)
(神を誇る人生)
最後に、その結果が示されています。「私たちは神を喜び誇るのです。」
和解とは、単に争いが終わることではありません。長年疎遠だった家族を想像してください。
和解したとき、それはただ争いがなくなるだけではありません。再び同じ食卓につき、生活を分かち合い、喜びを取り戻すのです。それこそが真の回復です。同じように、神との和解は、単なる平和にとどまらず、神にあって喜ぶ人生へと私たちを導きます。
結論
本日、聖金曜日に、私たちは単なるキリストの受難の悲しみ以上のことを覚えます。
それは――
ふさわしくない者に与えられた愛、
十字架によって確かなものとされた救い、
そして、続いていき喜びへと導くいのちです。
私たちの希望は自分自身ではなく、すでにキリストが成し遂げてくださった御業にあります。
この確かで揺るがない恵みの中にあって、今日を生きていきましょう。
礼拝音声はありません
聖書朗読:マタイ 8:23-27
説教題:弟子たちは驚いた
導入
四つの福音書を通して、イエス・キリストの弟子たちが驚いた場面がいくつも描かれています。本日の箇所で「驚いた」と訳されている言葉は、ギリシア語の「θαυμάζω」で、「不思議に思う」「感嘆する」という意味があります。それは称賛や、思索の始まりさえも含む言葉です。では、彼らが驚いたとき、本来どのように理解しているべきだったのかを考えてみましょう。
本文
弟子たちが知っているべきだったことは、次の通りです。
1)イエスは自然を支配する創造主の力を持っておられる
(ヨハネ1:3、コロサイ1:15–16、ヘブル1:2–3参照)
もし彼らがこれを本当に理解していたなら、驚くことはなかったでしょう。あなたはどうでしょうか。
2)イエスは旧約聖書で預言されたメシアである
(マルコ6:51参照)
この箇所は、弟子たちがなぜ驚いたのかを説明しています。五千人の給食は、イエスがメシアであること、すなわち神によって人々を養ったモーセのような預言者であることを示すしるしでした。また、イエスが湖の上を歩かれたとき、それはヨブ記9:8を思い起こさせるはずでした。もし彼らがイエスを約束されたメシアとして認識していたなら、驚くことはなかったでしょう。あなたはどうでしょうか。
3)救いはただ神の恵みによって与えられる
(マタイ19:23–26参照)
当時、人々は富が神の祝福のしるしであり、富んでいる者ほど神に近いと考えていました。しかし、救いは神の恵みとキリストにある義によってのみ与えられます。どんなに善い行いをしても、それによって神の国に入る資格を得ることはできません。この福音の真理を理解していたなら、彼らは驚かなかったでしょう。あなたはどうでしょうか。
4)イエス・キリストは異邦人のためにも来られた
(ヨハネ4:27 サマリヤの女の話参照)
弟子たちは、イエスが女性と話しておられたことだけでなく、その女性がサマリア人、すなわち異邦人であったために驚きました。しかし、聖書はすでに異邦人に救いが及ぶことを指し示していました(ゼカリヤ2:11参照)。この女性の証しを通して、町の多くの人々がイエスをメシアとして受け入れました。
異邦人に神の恵みと救いが及ぶことは旧約聖書にも見られます。イスラエル人がカナンに入植する時に、神が滅ぼすように定めていたギブオン人が、主の加護を求めて来た時、彼らは滅ぼされず、イスラエルの礼拝を支えるしもべとなりました(ヨシュア9:23b、27)。彼らはエズラやネヘミヤの時代に至るまで忠実に仕え続けました(ネヘミヤ3:7参照)。もし弟子たちが、すべての人に及ぶ神の恵みに心を開いていたなら、驚くことはなかったでしょう。あなたはどうでしょうか。イエスはあなたの救い主ですか。イエスは全能の神ですか。
礼拝中接続障害が有ったため、礼拝音声のリンクはつけません。
聖書箇所:黙示録4章、5章
説教題:私たちの希望、私たちの召命
3章までの7つの教会へのイエスの啓示が一段落して、「この後」という言葉によって、第4章ではヨハネに対する神からの新たな幻が始まります。イエスの声が彼に語りかけます。「必ず起こること」とは、原文では神によって定められ、必ず展開されるべき出来事を指しており、その中にはすでに進行しているものも含まれています。黙示録はもともと1世紀のクリスチャンに希望を与えるために書かれました。私たちもまた共有しているその希望と、その適用について考えていきましょう。
ヨハネは天にある御座を見ます。「御座」という言葉はローマ皇帝の座を指す言葉でもありました。当時のローマ皇帝はドミティアヌスであり、彼は自らを「主であり神である」と宣言していました。すべての市民は皇帝礼拝に参加することを求められましたが、クリスチャンはこれを拒み、迫害され、時には処刑されました。それゆえにヨハネはパトモス島に流されたのです。この啓示は、真の支配者は地上の皇帝ではなく、創造主なる神であることに私たちの目を向けさせます。
続くヨハネの幻は神のご性質を描写しています。
3節:神の威厳と美しさは宝石と虹によって表現されています。また、虹は命の契約における神の真実さを示唆しています。
4節:24人の長老が何を象徴するかは明確ではありません。神に忠実な民を表している可能性(3:4,18; 2:10; 3:11; 3:21参照)もあれば、天の礼拝における秩序と支配を象徴する天使的存在である可能性もあります。神の民のことを、「彼ら」と三人称で語っているからです。
5節:稲妻と雷は、モーセが律法を受け取ったシナイ山での神の臨在を思い起こさせます。神は裁く権威を持ち、常に聖霊と共におられます。
6節:ガラスの海の描写は出エジプト記24:10を思わせ、神の純粋さと美しさを象徴していると考えられます。
6節後半~8節:四つの生き物の描写はイザヤ書6章やエゼキエル書1章とよく一致しています。彼らはあらゆる被造物と神の遍在を表しています。獅子、牛、人、鷲は様々に生物の能力や性質を代表していると考えられます。また、エゼキエルがこの生き物の幻を見たのは、バビロンでのことでした。神の臨在は場所が限定されることはありません。多くの目は神の全知と恵みを象徴しています。すべての被造物は神を賛美すべきです。彼らの告白に表される神の属性は、聖さ、全能、永遠性です。彼らが絶えず神を賛美しているように、私たちも絶えず神を賛美するべきです。
9~11節:この箇所は、創造主なる神が永遠であること(9と10節)と、絶え間ない礼拝を強調しています。神はすべてを創造されたゆえに礼拝を受けるにふさわしい方です(11節)。
→ 創造主なる神とその統治に希望を置きなさい。困難の中でも礼拝を続けなさい。
1~5節:第5章は「ふさわしい方」を探す場面から始まります。父なる神はご自身の計画を象徴する巻物を持っておられますが、それを明らかにできる者は宇宙のどこにもおらず、ヨハネは激しく泣きます。しかし、その計画を明らかにできる唯一の方がいます。それはユダ族の獅子、イエス・キリストです。
6節:しかしヨハネが見たのは、ほふられたかのような小羊でした。イエスは十字架の釘の跡と刺し貫かれた傷を持ち、その働きがすでに完成していることを示しています。七つの角はその力を象徴します。またイエスは聖霊と共に立っておられ、聖霊は今も私たちの間で働いています(ヨハネ16:13-14、使徒2:33参照)。
7~8節:イエスが巻物を受け取ると、四つの生き物と24人の長老は父なる神と同様にイエスを礼拝します。イエスは神であり、礼拝と賛美にふさわしい方です。香の満ちた鉢は聖徒たちの祈りであり、私たちも天の礼拝に加わっています。
9~12節:彼らの賛美は、キリストが多くの人を救い、彼らを聖なる民、祈りによってとりなす祭司、福音を伝える証人とされたことを宣言しています。これが地上における私たちの支配です。そしてすべての天の存在がイエスを賛美します。
13~14節:さらに地上のすべての被造物も賛美に加わります。父なる神と御子は等しく礼拝されます。四つの生き物の「アーメン」で締めくくられます。
→ キリストこそ私たちの希望です。
どのような試練の中にあっても、創造主なる神が最終的な権威を持っておられることを覚えなさい。神はすべてを支配しておられます。その方に信頼と希望を置き続けなさい。神は聖であり、全能であり、永遠なる創造主です。契約に忠実であり、あなたの味方でいてくださいます。すべての被造物は絶え間なく神を賛美するよう召されています。
神の贖いの計画を実行するにふさわしいのはイエスだけです。十字架の死によって罪を贖い、死に勝利し、救いを完成されました。三位一体の第二位格として、聖霊を送り、私たちに力を与えてくださいます。父なる神と同じ礼拝と栄誉を受けるにふさわしい方です。ユダの獅子、ほふられた小羊を信頼し、その勝利の中に真の命を見出しなさい。
私たちは聖書の三位一体の神に希望を置きます。ヨハネの時代の読者と同様に、その預言的な深さを理解するために御言葉を知る必要があります。ヨハネは旧約聖書のシンボリズムを多用しましたが、当時の読者にはそれが理解できたのです。私たちも聖書に通じていなければなりません。神の民として、その主権を認めましょう。イエスは私たちを祭司の王国として召し、世のためにとりなし、証しを通して支配するようにされました。生き物や長老たちと共に、私たちは天の礼拝に加わります。私たちのあらゆる祈りは香のように御座の前に立ち上ります。
この召しに応答しましょう。
礼拝音声
聖書箇所:使徒行伝 3:11-26
説教題:悔い改めよ、イエスはあなたの救い主だから
「美しの門」と呼ばれる神殿の門で足の不自由な物乞いが癒された出来事は、大きな騒ぎを引き起こし、エルサレムにいた同胞のユダヤ人に対してペテロが福音を語るきっかけとなりました。しかしこの出来事は、私たちが注意を払うべきキリスト教信仰の重要な要素も示しています。ペテロが群衆に何を語ったのかを、もう少し詳しく見てみましょう。
12節
まずペテロは、この奇跡が自分自身の力や敬虔さによって行われたのではないことを明確にしました。当時の人々の中には、義人は奇跡を行うことができると信じている者もいました。
13–15節
次にペテロは、特にユダヤ人の聞き手にとって意味深い形でイエスに栄光を帰しました。
「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という称号は、日々の祈りの中で用いられ、民族の祖先を指していました。
「そのしもべイエス」という表現は、イザヤ書52章13節に描かれている神のしもべの苦しみと栄光が念頭に有ります。
ペテロが言っていることは、要するにこうです。
「あなたがたの神はメシアであるイエスを遣わされたのに、あなたがたは彼を引き渡して殺させた。」
彼の告発は14節でも続きます。
「聖なる正しい方」という称号は、イエスが神の前にも人々の前にも罪のない方であることを意味します。しかし群衆の多くはピラトの法廷でイエスを罪に定め、その代わりに殺人者バラバの釈放を求めました。そのようにして彼らは「いのちの君」を殺したのです。
「君」について
この言葉は、ギリシアの都市の創設者や守護者を指す言葉として使われました。また、人々に生きる道を切り開き、先頭に立って導く指導者という意味もあります。この意味において、イエスはいのちの創始者であり守護者です(ヨハネ14:16)。
しかしここで注意すべき点があります。人々はイエスをピラトに引き渡しましたが、最終的にそのいのちを奪ったわけではありません。イエスご自身がヨハネ10章18節で言われたように、イエスには命を捨て、またその命を得る権威が有るのです。イエスのいのちは奪われたのではなく、ご自分で進んで捨てられたのです。
それでも神のご計画は成就しました。ペテロは続けて言います。
「神はこの方を死者の中からよみがえらせました。」
この宣言は福音の中心です。イエスの犠牲の死は、復活によって神に受け入れられたことが示されました。そしてペテロは大胆にも、使徒たちはその事実の証人であると宣言しました。
16節
続いてペテロは、癒された人そのものを指し示しました。それは、イエスがメシアである栄光と復活の証拠です。彼らの目の前にこの生きた証拠があった以上、それを否定することはできませんでした。
17–20節
ここでペテロは、人々の霊的無知を指摘します。無知は軽いものと見られることもありますが、ユダヤ教では真理を知らないこと自体が罪と考えられていました。
同時に、キリストの苦しみは神の計画であり、預言者たちによって前もって告げられていたものでした。
救いが確立された今、人々は悔い改める時が来ています。悔い改めによって、主からの「回復の時」がもたらされます。ここで「時」が複数形であるのは、霊的回復が繰り返し訪れることを示しています。悔い改めを通して、人々は霊的に完全に回復されるのです。そして神の時に、キリストの再臨によって教会全体が回復されます。最後にはすべての被造物は新しくされ、新しい天と新しい地が到来します(イザヤ65:17–18、9:6–7 )。
イエスは今、天でその時を待っておられます。
23–26節
ペテロは悔い改めの理由として、預言者たちを一貫して引用します。
第一の理由(22–23節)
モーセはメシアの到来を預言しましたが、そこには条件がありました(申命記18:15、18–19)。
イエス・キリストに従わない者は、民の中から断ち切られるのです。
だからこそ、悔い改めなさい。
第二の理由(24–26節)
サムエルとその後の預言者たちもまた、メシアの支配を預言しました(サムエル記第二7:12–13 )。
イエスは今、天から世界を支配しておられます。
ユダヤの伝統では、アブラハムも預言者の一人に数えられ、ヤコブは息子たちに預言的祝福を与えました。したがって、人々は預言者たちの子孫であり、相続人です。
神がアブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれたように、人々はその祝福の契約を受け継いでいます。メシアは神の祝福として、まずユダヤ人に遣わされました。
だからこそ、悔い改めて悪い行いから立ち返りなさい。
要するに、ペテロはユダヤ人にこう訴えました。
「イエス・キリストこそ、まことにあなたがたのメシアです。主からの回復の時を経験し、神の祝福を受け継ぐために、悔い改めて悪い行いから立ち返りなさい。」
では、異邦人である私たちはどうでしょうか。それは、25節に示されています。アブラハムの子孫(イエス)によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになると述べられいます。旧約聖書の預言を見ると、異邦人も神の救いの計画に含まれていることが分かります(創世記12:3、イザヤ49:6)。またパウロも、信仰によって異邦人はアブラハムの子どもとなると語っています(ガラテヤ3:6–8)。
私たちもこのメッセージを受け入れ、信仰をもって応答しましょう。これらの箇所から、次のことを理解することができます。
足の不自由な人の癒しは、イエスと使徒たちの正当性の証拠です。イエスの到来はアブラハム以来約1240年以上にわたって繰り返し預言されており、その成就は信頼できるものです。
イエスは神の子であり、いのちの君、いのちの創始者です。私たちはイエスについて真の知識を求め、救い主として受け入れるべきです。
無知は言い訳にはなりません。無知もまた罪なのです。
イエスがもたらす回復の時が、あなたのものとなるためです。
従わない者は滅びるからです。
私たちもユダヤ人と共に祝福の契約の相続人であり、イエスはあなたの救い主だからです。