礼拝音声
「真理に属する者の在り方」
<ヨハネの手紙第一 3:13–24>
2025年8月17日
はじめに
19〜20節は、私たちのアイデンティティを別の視点から明らかにし、平安の源が「すべてをご存じである神の偉大さ」にあることを示しています。この理解こそが、今日の箇所の土台となっています。私たちが「真理に属する者」として、どのようにその影響を受けるかを共に考えましょう。
本論
1) 私たちは世の憎しみを認識し備えなければならない(13〜15節) 前の段落では、ヨハネは「悪しき者に属する者は兄弟を憎む」と語りました。そして今、世が悪しき者に属していることが明らかになった今、私たちに対する憎しみに驚くべきではありません。落胆する必要もありません。むしろ、この現実は私たちに確信を与えます。私たちは「真理に属する者」であり、死から命へと移されたのです。私たちは互いに愛し合っており、その愛こそが私たちのアイデンティティの証拠です。
2) 私たちは犠牲的な愛を実践する(16〜18節) 私たちは、キリストの犠牲的な愛の模範を通して、愛が何であるかを学びます。ヨハネは、私たちがこのことを決して忘れないように願っています。イエス・キリストこそが私たちの模範です。愛とは、単なる感情ではなく、犠牲的な行動です。ヨハネは「命を捨てること」に言及していますが、私たちの日常においては、具体的なかたちで愛を実践することに重点を置くべきです。たとえば、互いに忍耐し、赦し合い、迫害されている人々を助けることなどが挙げられます。
17〜18節では、ヨハネは具体的な例を挙げ、私たちが実際的かつ積極的に愛し合うよう励ましています。ここで使われている「真実において(in truth)」とは、「福音とイエス・キリストの戒めに根差した真実な愛」を意味しています。私たちの愛は、感情によるものではなく、神への従順という意識的な選択から流れ出るものです。これはキリストの証しとなる行動なのです。
3) 私たちは真理に属し、神の偉大さの中に平安を見出す(19〜20節) 私たちの行いは、私たちが誰に属しているかを明らかにします——すなわち、私たちは真理に属している者です。時に、私たちは自分自身を責め、「自分は十分ではない」と感じることがあります。しかし、神はすべてをご存じです。私たちの状況も、理解も、弱さも、痛みさえも。神はあわれみに満ち、恵みに満ちた方です。イエス・キリストを通して、私たちに忍耐と赦しを与えてくださっています。主こそが、私たちの平安なのです。
4) 私たちは従順のうちに歩むとき、神の御前に確信を持つ(21〜24節) 私たちの確信の根拠は、22節後半に記されています。(※読み上げてください)
イエス・キリストを信じ、その戒めに従うとき、私たちは神に喜ばれる存在となります。このゆえに(21節後半〜22節前半)、私たちは今も、そして審判の日にも、主の御前に出る備えができているのです。
「神から求めるものを受ける」(ヨハネ15:7も参照)
——ここでの理解は、私たちの心と思いが神の御心と一致しているということです。神の約束と御心に従って祈ることができるのです。このような理解に立つとき、たとえ願った通りに答えが与えられなくても、私たちは謙虚に神の御決定を受け入れることができます。
23〜24節は、最後の晩餐におけるイエスの語られた言葉を反映しています。(ヨハネ15:9–10、6:29も読みましょう)
「私たちは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知る」——それは例えば、「神の御言葉を知り、従いたいという思い」(ヨハネ16:13)や、「罪に対する悔い改めと聖さを求める心」(ヨハネ16:8)です。これらはすべて、御霊の働きと臨在の証拠です。