礼拝音声 (リソース不足のため説教後に切れます)
聖書箇所:ヨハネ 6:332-58
説教題:イエスの肉を食べ、血を飲んだか
導入
イエスと群衆の会話は、イエスが五千人にパンを与えた翌日に起こりました。群衆はその奇跡に感動し、彼をモーセのような預言者と見なし、王にしようとさえしました。しかし、彼らは地上のパンに心を奪われ、永遠のいのちを求めるようにとのイエスの呼びかけを見失ってしまいました。彼らが「何をすべきか」と尋ねたとき、イエスは「わたしを信じなさい」と言われました。しかしなおも納得しない彼らは、さらに大きなしるしを求めました。イエスがどのようにご自身を現されたかを見ていきましょう。
本論
32節〜35節では、モーセは単なる仲介者であり、マナを与えたのは神ご自身であることが示されています。重要なのは、そのマナが過去の一時的なものではなく、今も与えられ続けているということです。そして神は、真のいのちのパンとしてイエスを遣わされました。群衆が「そのパンをください」と求めたとき、イエスは「わたしがそのパンである」と明らかにされました。イエスこそが、永遠のいのちを保つためのパンであり、生ける飲み物なのです。
36節〜40節では、群衆の不信仰が浮き彫りになります。バプテスマのヨハネはすでにイエスを「神の子」と証し(ヨハネ1:34)、イエスご自身もそのことを明らかにされたのに(ヨハネ5:17-18)、多くの人が彼を拒みました。イエスは、永遠のいのちを受ける者について、「父がわたしにくださる者はみな、わたしのところに来る」と語られました。そして「わたしは彼らを終わりの日に生かす」とも。イエスこそが、いのちのパンなのです。
41節〜51節では、群衆はイエスの地上の両親を知っていたため、彼に対して疑いを持ちました。その疑いはある意味で論理的でした。奇跡を見ても彼がメシアであることを信じませんでした。彼らの霊の目は閉ざされていたのです。イエスは、信仰とは神の導きによるものであると語られました。神から教えを受けようとする者だけが、イエスに引き寄せられるのです。これは、真の信者の特徴です。「父を見たのはわたしだけだ」と言うことで、イエスはご自身の神性と権威を強調されました。再び「わたしはいのちのパンである」と語り、永遠のいのちを提供されました。そして初めて、「このパンは、世のいのちのためにわたしが与える肉である」と語られました。
52節〜58節では、イエスは比喩的に語っておられましたが、群衆はその意味を理解できませんでした。聖書において「食べる」という表現は、知恵や神のことばを受け入れ、自分の内に取り込むことを象徴する場合があります。イエスは「このパンは、世のいのちのためにわたしが与える肉である」と言われました。この「世」とは罪に死んでいる世界であり、彼の犠牲によっていのちが与えられたのです。だから、「この世のいのちのため」ということになるのです。申命記8:3が示すように、人は神の言葉によって生きるのです。そして、イエスは「神のことば」そのものなのです。
「血を飲む」とは、十字架の死によってなされた贖いを個人的に受け入れることを意味します。イエスの血によって、私たちは赦されます。この福音を信じる者は永遠のいのちを受けるのです(ヨハネ5:24)。イエスを信じるとは、彼の肉を食べ、その血を飲むこと——つまりキリストの神性を信じ、キリストの十字架の血によって罪許されたことを信じ、その教えにとどまることです(ヨハネ15:9–10)。
58節では、イエスは「わたしはモーセよりも偉大である」と語り、ご自身が天から来られた神であることを強調されています。
まとめ
1)イエスは神によって天から遣わされた方
イエスは天から来られた神の子です。彼は神ご自身であり、ダニエル書7章で預言された「人の子」です。すべての国々が彼を礼拝すべき方であり、栄光と誉れにふさわしいお方です。彼は人として死ぬために「人の子」という称号を選ばれました。この箇所で何度も「わたしは天から下って来た」と言われています(35節、38節、48〜50節、58節)。
2)神はイエスにある永遠のいのちへとあなたを招いておられる
37節、39節、44〜45節は、父なる神が人々をイエスのもとへ引き寄せておられることを示しています。これは恵みによる招きです。しかしその招きは強制ではありません。45節には「彼らはみな、神によって教えられる」とあります。これは、私たちが心を開き、学ぼうとする意志を持つことが必要だという意味です。神の教えを無視すれば、真理に到達することはできません。神の恵みと愛は、私たちの自由意志とともに働いて、信仰へと導いてくださいます。
3)イエス・キリストの肉を食べ、その血を飲みなさい
イエスの肉を食べるとは、彼を神として、救い主として信じることです。また、聖書のことばに従って生きること、彼の戒めに従うことでもあります。ヨハネ15章でイエスは「わたしにとどまりなさい」と語られています。それは従順によって実現されます。
彼の血を飲むとは、イエスが私たちの罪のために血を流されたことを信じ、その贖いを自分のものとして受け入れることです。血を流すことがなければ罪の赦しが無いということはヘブル9:22で述べられています。
約1年後、イエスは私たちに「主の晩餐」を与えられました。それによって、彼の教え、十字架の死、復活を記憶し、信仰を新たにするのです。これが、「彼の肉を食べ、彼の血を飲む」ことの意味を覚え、イエスの留まることを確認させるものなのです。
あなたは、イエスの肉を食べ、彼の血を飲んでいますか?
もしそうであれば、あなたはキリストにとどまっています。
彼はあなたを終わりの日に生かし、永遠のいのちを与えてくださいます。
イエスは繰り返し私を信じる者を終わりの日によにがえらせること、永遠のいのちを与えることを述べられました。そこにイエスの情熱があるのです。イエスはあなたにその恵みを心から受け止めて欲しいと願っていらっしゃるのです。