礼拝音声

聖書箇所:使徒行伝 2:1-21
説教題:完全に成就したペンテコステ

導入
*イエス・キリストの弟子たちは、10日間にわたって上の部屋で共に祈り続けていました。そして10日目、ユダヤ三大祭りのひとつである五旬節の日、彼らは神殿に向かい、祭りを祝いました。神はこの時を選び、祭りの本来の意味を成就させ、イエス・キリストを通して新しい時代を始められたのです。この驚くべき出来事の意味を探ってみましょう。

本文
使徒の働き 2章1節〜4節
「五旬節の日になって」というのは「五旬節が最高潮に達したとき」というのが元のニュアンスで、午前9時ごろを指し、神殿で捧げものが供えられるなど、祭りが真っ盛にとなる時間だったと考えられます。「ひとつ所に集まっていた」というのは、おそらく神殿内のある場所を指していました。「家」という語が神殿を意味することもありました(2節)。この場面設定によって、この特別な出来事は、多くの巡礼者の耳目を集めることになったのです。
ここで起こったこと:
1. 天から大きな響きが神殿全体を満たしました――その場にいた全員がそれを聞きました。それが上から来たことで、人々はそれを神のしるしと認識しました。この響きは激しい風のようで(実際の風ではありません)、神の臨在と御霊の現れを示していました。聖書のヘブル語とギリシャ語において、「風」は「霊」という意味もあります。
2. 分かれた舌のようなものが現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまりました。それは神秘的で説明の難しいものでしたが、重要なのは、それが周囲の人々にも「見える」形で現れたという点です。
3. 弟子たちは聖霊に満たされ、御霊の導きによって外国語を話し始めました。

2章5節〜6節
「住んでいた」というのは、一時的に滞在していたということです。エルサレムに滞在していたのは、経験なユダヤ教徒で、ユダヤの地以外から巡礼に来た人たちでした。過越の祭りと五旬節は50日しか離れていなかったため、多くの人々は長旅を二度繰り返す代わりに、エルサレムに留まっていたのです。

2章7節〜11節
多くの人々は弟子たちがガリラヤ人であることを知っていたので、突然外国語を話し始めたことは明らかに神の介入によるものだと考えることしかできませんでした。「驚き」を表す同義語が繰り返されて用いられており、その驚愕の度合いが強調されています。
列挙された民族と地域は、多種多様な既知の言語が話されたことを示しています。これらの巡礼者たちは、それぞれの地に住み、その言語を日常的に使用していたのです。
• 東方から:パルティア人、メディア人、エラム人、メソポタミアの住民――捕囚の民の子孫と思われます。
• ユダヤ地方から:ユーフラテス川からエジプトの国境に至る地域を指します。
• 小アジアから:カッパドキア、ポントス、フリュギア、パンフィリア。
• 北アフリカから:エジプトとキレネに近いリビアの一部。
• ローマから:さらに広大で多様な地域を代表しています。
☆ ヨーロッパに舞台を移して例えてみます。小国バルト三国の一つであるラトビアの人たちが、バチカン市国に集まっている時に、突然完璧なフランス語、ドイツ語、スペイン語を話し始め、それをヨーロッパ中から来た巡礼者が聞いたというような出来事だったのです。
→ 彼らが正確に何を語ったかは記録されていませんが、神の栄光をたたえ、人々はそれを自分の言語で理解したのです。

2章13節〜16節
神の奇跡的な介入があっても、一部の人々は弟子たちに敵意を示しました。神殿で酒に酔うのは恥しいことです。(サムエル記第一1:13–14参照)ペテロと他の使徒たちは立ち上がり、この出来事を説明しました。
日本語の聖書では、ペテロの呼びかけは丁寧な依頼のようになっていますが、原語では権威ある断固とした口調で語ったことがわかります。「これをよく理解しなさい。私が今から語ることは重要で真実である」と言う意味がありました。そして、その日の出来事は聖書に根ざした神の預言の成就であると断言して大胆に語り、ヨエル書2章28〜32節を引用しました。

2章17節〜21節
「終わりの日に」とは、「終わりの日々に」という複数形です。イエスの初臨から再臨までの期間を指します。換言すれば、私たちは終わりの日に生きていることになり、そういう認識が必要になります。
「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」:聖霊は、旧約時代のように選ばれた少数ではなく、すべての信じる者に与えられるのです。聖霊によって力を受けた者たちは、福音を語り、聖書を解き明かすことができます――これが「預言する」という意味なのです。           「災い」の描写:ヨエルとペテロは主にユダヤ人に語っていました。ヨエルの述べた災いのイメージは戦争と裁きを意味しています。ユダヤ人たちは今に至るまで多くの苦難を経験してきました。しかし、そのような場合でも、結論は、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」なのです。この救いに目を向けなければなりません。(21節)

五旬節の真の成就
使徒行伝2章の五旬節・ペンテコステの意義を理解するには、この祭りのことをよく知る必要があります。過ぎ越しの祭りと併せて確認します。
• 過越の祭りでは、罪なきキリストを象徴する種なしパンが食されました。過越の次の日曜日には、大麦の初穂が神に献げられ、これはキリストが「初穂」として復活することを指し示しています。私たちは初穂であるイエスの後について天に迎え入れられるのです。
• そして50日後の日曜日、五旬節には、二つの種入り小麦パンが神に初穂として献げられました。これはユダヤ人と異邦人の一致を象徴しています。ボアズとルツ(ユダヤ人と異邦人女性)の結びつきを記念してルツ記も朗読されました。種入りパンは、罪ある者でも悔い改めによって救われうることを思い出させます。あの日、神殿にはユダヤ人も異邦人改宗者も共にいました。ペテロの説教に応答してバプテスマを受けた者たちこそが五旬節の最初の霊的「初穂」だったのです。
• ペテロはこの出来事がヨエル書2章の成就であると宣言し、こう結びました:「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」
神のご計画の中で、五旬節は、ユダヤ人と異邦人に向けた福音宣教と教会の始まりに最もふさわしい設定だったのです。大勢の人が見聞きした不思議な現象が伴ったからこそ、最初の宣教は多くの人を信仰に導き、2000年以上経った今日まで信仰を伝えることになったのです。

まとめ
それぞれに思う所、心に留まった点が有るはずですが、次の三点を挙げておきます。
1)神は約束を守られる――約束された賜物である聖霊と、ヨエルの預言の成就
2)聖霊はすべての信者に宣教のための力を与える
3)すべての人が神の国に招かれている(ユダヤ人も異邦人も)
 ☆だからこそ、この出来事は多くの巡礼者に目撃される必要があったのです。