礼拝音声

聖書箇所:マタイ28:16-20
説教題:いつもあなたがたとともにいる

導入
*『マタイによる福音書』は、ユダヤ人の読者を対象に書かれました。今日の読みの箇所は短いですが、ユダヤ人読者に向けた強力なメッセージが含まれています。マタイが伝えようとしたメッセージを詳しく見てみましょう。

本文
16節 弟子たちはイエスの指示に従ってガリラヤに行きました(マタイ26:32、28:7,10を参照)。これはイザヤ9:1を二度目に成就させたことになります—最初は彼の宣教の始まりに、そして今はその終わりにおいてです。
*旧約聖書では、山は神が命令を与える場所でした—モーセやエリヤに対してもそうでした。モーセはシナイ山(ホレブ山)で十戒と律法を受け取り、エリヤもそこでバアル崇拝に立ち向かうために二人の王を任命し、預言者エリシャを任命するよう命じられました。
*イエスが弟子たちを山に呼び寄せたことは、彼が神であり、大いなる命令を与えることを示しています。
17節 イエスは弟子たちと山で出会いました。彼らはイエスを神として礼拝しましたが、ある者たちはまだ疑ったと記されています。
*「疑い」(ギリシャ語:ディスタゾー)は、ためらいや不確かさを意味し、完全な不信のことではありません。ヨハネ20章に記録されているように、彼らはすでに復活したイエスと出会っていました。それでも、ある者たちは混乱したり、どうしたらよいか心が定まらない様子でした。
18節 イエスは弟子たちに近づき、復活の確かさを示しました。彼は優しさと心配りをもって個人的に近づきました。たとえ彼らがためらっていたとしても、イエスは彼らに近づき、大宣教命令として知られる使命を託されたのです。
*イエスはまず、この使命の基盤である「権威」を述べました。この権威は復活によって確かなものにされました。それはサタンを打ち負かし、死を克服したメシアの権威です。パウロはエフェソ1:20-21でこれを強調しています。(お読みください。)復活による権威は救いをもたらし、それは彼を信じるすべての者にとって最高の喜びの知らせです。イエスの言葉は、ダニエル7:14を思い起こさせるかもしれません—イエスはその預言に出てくる人の子そのものであることを示しています。
19-20節 「ですから」という言葉は、復活した主イエス・キリストの権威を指し示しています。19-20節の命令は、彼の至高の権威に基づいています。
*イエスの言葉は、一つの命令—「弟子としなさい」と、その説明を補う三つの分詞で構成されています。中心となる命令は、弟子を育てることです。それは、キリストのくびきを担い、彼の言葉を聞き、理解し、それを生きる人々を育てることです。
この呼びかけは、生涯にわたる学びと内面的な変革を含みます。それは単なる知識の伝達ではなく、従順な信者を育てることです。三つの分詞を見てみましょう。
1. 「行くことによって」—これは「行くにつれて」「行った後に」とも理解できます。行くこと自体が前提とされています。私たちは、福音について人々が尋ねてくるのを待つのではなく、意識的に出て行くべきです。この文脈では、私たちの日曜礼拝や、奉仕もこのことの適用と考えられます。
2. 「バプテスマを授けることによって」—バプテスマは元々、ユダヤ人以外の人々がユダヤ教に改宗する際に用いられていましたが、キリスト教では悔い改めだけでなく、神との一致を意味します。「父と子と聖霊の名によって」という言葉は、単に三位一体の神の権威によってということではありません。三位一体の神との関係に入る、結び合わされることを意味します。ギリシャ語の前置詞「エイス」は「内へ」を意味し、「名」は単数であるため、弟子が神と結び合わされて生きて行くことを示していることになります。
3. 「教えることによって」—悔い改め、回心、バプテスマはキリストにおける霊的歩みの始まりに過ぎません。継続的に教えを守ることが重要です。「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守る」という部分に注目する必要があります。私たちはどの教えを守るかを選ぶことはできまないのです。すべての教えに従わなければなりません。聖書を学び、イエスが弟子たちに教えたことに注意深く従う必要があります。
*イエスは彼の命令を力強い励ましの言葉で締めくくります。ギリシャ語の「ἰδοὺ(ヒドゥ)」は「見よ」と訳され、強い注意を促します。それは、いつもともにいるということを強調しています。いつもというのは、すべての日々にという雰囲気があり、一瞬もイエスが共にいない時間はないと約束しているのです。これは単なる抽象的な霊的存在としてではなく、現在進行形で、個人的に、絶え間なく近くに存在するということです。イエスの霊である聖霊が私たちクリスチャンには内住していらっしゃるからです。
*この締めくくり言葉の中で、イエスは二つの方法で彼の神性を示しています。第一に、「ἐγώ εἰμι(エゴー・イーミ)」というユダヤ的伝統の中で神の名前を指すフレーズを使うことで、第二に、イザヤ7:14を成就し、マタイ1:23で繰り返されるように、彼がインマヌエル(神は我々と共におられる)であることを示すことで、ご自分が神であることを再度示されたのです。
*マタイはその福音書を、この美しい真実で締めくくります。福音書の始まりの1章おいても、終わりの28章においても、神が共におられるということを示して強調しているのです。そしてその神があなたの神なのです。主をほめたたえます。

まとめ
それぞれに感じるところがあると思いますが、次の三点を挙げておきます。

1. イエス・キリストは神である
復活したイエスは、天と地のすべての権威が彼に与えられたと宣言しています。「エゴ―・エイミー(私はある)」というフレーズを使うことで、彼は神の名前を想起させ、彼が主権を持つ主であることを示しています。
2. 彼はいつも私たちと共にいる
イエスは「いつも、すべての日々に」と約束し、終わりの時まで共にいると言っています。これは単なる象徴的な近さではなく、現実的に絶え間なくともにいるということです。マタイの福音書は、イエスがインマヌエル—共におられる神—であることを強調しています。
3. だから行動を起こして人々を弟子とすること(たとえ自分の信仰に動揺があっても)
イエスが神であり、いつも共にいるからこそ、私たちは行動するように呼びかけられています。命令は人々を弟子をとすることです—行き、バプテスマを施し、教えを守ることによって。三位一体の神との一致の中で、弟子であるということには、絶え間なく御心に沿って変えられていくことと従順が含まれます。私たちは世界に証しをするために、忠実に日曜礼拝に参加するのです。