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聖書箇所:イザヤ53:1-12
説教題:満足します

要約

導入
私たちはこの日を「グッド・フライデー(聖金曜日)」と呼びます。それは、イエス・キリストが私たちを救うために十字架の上でその使命を全うされた日だからです。その救いのメッセージは「福音」として知られており、それは「良い知らせ(グッドニュース)」を意味します。だからこそ、この日を「良い日」と呼ぶ理由が私たちにはあるのです。この出来事は旧約聖書の預言の中で予告され、語られてきました。今日は、私たちの朗読箇所を通して、神のご計画の素晴らしさに思いを巡らせましょう。

本文
イザヤ書53章は、イエスを直接的に指し示す力強いメシア預言です。ルカの福音書22章37節で、イエスご自身がイザヤ書53章12節を引用し、ご自分が「罪人とともに数えられる」と予告されました。この預言は、イエスの十字架刑において成就されました。使徒ペテロも、1ペテロ2章24~25節でイザヤ書53章5節に言及し、イエスが私たちの罪を担い、その傷によって私たちが癒されたことを確認しています。使徒の働き8章32~35節では、聖霊がピリポを導き、イザヤ書53章7~8節を通してエチオピアの宦官に福音を語らせました。これらの出来事はすべて、イザヤ書53章がイエスこそが約束されたメシアであることをはっきりと証ししていることを示しています。
では、イザヤ書53章における「良い」部分に注目してみましょう:
• 4節 ― 彼は私たちの弱さ、病や悲しみといった身体的・精神的なものすべてを担ってくださいました。
• 5節 ― 彼が受けた打ち傷と傷によって、私たちは癒されました。
 「癒し」とは、回復、清め、霊的な完全さも含みます。
• 6節 ― 彼は私たちの代わりに罰を受けました。私たちは罰せられません。
 「咎」とは、罪、罪の責任、そしてその罰を意味します。
☆これらは、私たち人間にとっての「良い」部分です。しかし、それだけがイザヤ書53章に描かれていることでしょうか? いいえ。イエスの苦しみは、神にとっても「良い」ものでした。
• 10節 ― キリストの苦しみは神の御心でした。結びの言葉を直訳すると「主(ヤハウェ)の喜びは、彼の手にある」となります。キリストは神の御心を成し遂げ、それは神の喜びでもありました。その結果、「末永く子孫を見ることができ」と書かれています。彼は砕かれたけれども、復活し、さらに多くの魂を救いへと導かれるのです。
• 11節 ― ここでの「彼」とはイエス・キリストのことです。父なる神は、キリストが「満足される」と宣言されています。それは、その苦しみの結果、多くの人が救われるからです。
これらから、天の父なる神と子なる神イエス・キリストがイエスの受難を良いこととして捉えていることがわかります。
☆ゼパニヤ書3章17節は、神が私たちの霊的回復に喜びを見出されることを示しています。イエスはルカの福音書15章7節の放蕩息子の話でも同じ原則を伝えています。イエスの洗礼の時、父なる神は「彼はわたしの愛する子、わたしは彼を喜ぶ」と宣言されました(マタイ3章17節)。なぜでしょうか? キリストの苦しみは、神にとっても「良い」ものだったからです。そして、私たちは神とともに喜ぶのです。