礼拝音声

聖書箇所:マタイ27:57-66
説教題:イエスは確かに死なれた

導入
イエスが十字架で死なれたとき、百人隊長とイエスを見張っていたローマの兵士たちは、「まことにこの人は神の子であった」と言いました。ここで使われている動詞は未完了時制であり、「死ぬまで神の子であった」とも解釈できます。しかし、イエスの十字架での死は、その働きの終わりではありません。この箇所の奥深い意味を探ってみましょう。

本文
57節〜58節 夕方になったころ:これは午後3時から日没までの時間帯を指します。ユダヤの律法(申命記21:22–23)によると、処刑された罪人の遺体は夜通しさらしておいてはならないとされています。翌日は安息日であると同時に過越の祭りの日でもあったため、特に神聖で特別な日でした。日没以降はいかなる労働(埋葬も含む)も禁じられていたため、埋葬を急ぐ必要がありました。
アリマタヤのヨセフ:彼はイエスの弟子であると同時にユダヤ議会の議員でもありました。そのため、通常の執務時間外でもピラトに会うことができたのでしょう。反逆罪で処刑された者の遺体は、影響力のある人物の介入がない限り、遺族に引き渡されないのが通常でした。
  ピラトはイエスが早く死んだことに驚きました(マルコ15:44)。しかし、私たちはイエスがご自身の権威でお決めになった適切な時間に霊を委ねられたことを覚えておくべきです。イエスの死は、単なる十字架刑による自然な結果ではなく、神としての意志によるものでした。
59節〜60節 きれいな亜麻布で遺体を包んだ:ヨハネ19:40によれば、これはユダヤの埋葬の習慣に従ったものでした。亜麻布は高価な布であり、きれいで上質な布を使うことは、敬意と心配りの表れでした。これは裕福で尊敬される人々の埋葬に用いられるものであり、アリマタヤのヨセフがイエスに対して丁重な埋葬を行ったことを示しています。ヨセフは自分のために準備していた新しい墓にイエスを葬りました。これはイザヤ53:9の預言を成就するものでした。
  墓の入口は大きな丸い石で塞がれました。これは一人や二人では動かせないほど重いものでした。マルコ16:3では、三人の女性たちが誰がその石を動かしてくれるのかを案じていた様子が記されています。ヨセフとニコデモが召使いたちと一緒に石を転がして閉じたと考えられます。
61節 ヨハネの福音書によると、ニコデモは没薬とアロエを持ってきてイエスを埋葬しました。二人の女性たちも遺体の準備に関わったと考えられます。これらの女性たちは、イエスの死と埋葬を目撃した重要な証人です。もしイエスが共同墓地に埋葬されていたなら、彼の復活は彼女たちに目撃されなかったかもしれません。
  イエスがエルサレム(ダビデの町)に葬られたことも重要です。多くのダビデ家の王たち、そしてダビデ自身もこの町に葬られており、イエスが約束されたダビデの子孫であることを強調しています。
62節〜65節 ユダヤの指導者たちは、弟子たちが遺体を盗んで「イエスが復活した」と主張するのを恐れて、ピラトに墓の警備を願い出ました。この申し出には二つの理由が考えられます。第一に、ユダヤ人である神殿の衛兵たちは安息日には働けなかったこと、第二に、ローマの権威を借りることで対策に重みを持たせたかったことです。
  彼らの発言からは、イエスに対する敵意と拒絶の心が読み取れます。彼らはイエスを「あの、騙す者」と呼び、数々の奇跡や旧約の預言の成就にもかかわらず、メシアとして受け入れませんでした。彼らの心には妬みと誇りが満ちていたのです。
66節 封印と見張り:ローマの封印とは、墓がローマの権威の下にあることを示す公式な印です。石にひもをかけ、両端に蝋や粘土で封印をしてローマの印章を押す形だったと考えられます。この封印を破ることは、ローマに対する反逆行為であり、死刑に値する重大な犯罪でした。
  人間的観点から見ると、イエスの遺体を墓から盗み出すことは不可能だったのです。そこから神の力によって復活されたこことに意味があるのです。
 
まとめ
以下にこの箇所からの重要なポイントをまとめます

1. イエス・キリストは確かに死なれた
少なくとも四人の証人(アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア)によって、イエスの死と埋葬は確認されています。イエスは上質な亜麻布で包まれ、ダビデの町エルサレムに、ダビデの子孫として王のように葬られました。
  アリマタヤのヨセフは、イエスを自らの墓に葬った経験を生涯忘れなかったことでしょう。そして、イエスの復活を共に喜び、いつの日か同じ場所から主の日に甦る希望を抱いたかもしれません。

2. イエスの遺体を盗むことは不可能だった
墓は大きな石で塞がれ、ローマ兵が警備し、ローマの封印が施されていました。封印を破ることは重罪であり、死をもって罰せられるものでした。これにより、次章(マタイ28章)で起こる出来事に信憑性と意味が加わります。

3. イエスは私たちを救うために死ななければならなかった(最重要)
死は罪の結果です(創世記2:17)。パウロも「罪の報酬は死である」と書いています。イエスが私たちの罪をその身に負われたため、私たちの代わりになるのですから、死なねばなりませんでした。イエスの死がなければ、罪の赦しはありえなかったのです。