礼拝音声

聖書箇所:マタイ27:45-56
説教題:イエスは霊をお渡しになった

導入                                                              今日の箇所は、イエス・キリストが十字架で死ぬ場面です。これは十字架刑の終わりの記述ですが、同時にメシアとして、また救い主としての使命のクライマックスの描写ともいえます。マタイの記述の意味の理解を深めていきましょう。

本文                                                               45節 真昼間の闇は異常な現象です。また、イエス・キリストの生涯における最も暗い瞬間を象徴していたとも言えるかもしれません。この闇は、出エジプト記に登場する十の災いの一つを思い起こさせ、神に反逆する者への怒りを表していると考えられます。
46節 ここでイエスは詩篇22篇1節を引用して叫びます。この言葉は、十字架上でイエスが経験した深い感情も反映していると思われます。詩篇22篇はメシア的詩篇として考えられており、この詩篇に記された預言が成就していることがわかります。(6-8節、16-18節をお読みください。)
47節 「エリ」という言葉は二つの部分から成り立っています。「エル」は神を意味し、「イ」という接尾辞は「私の」を意味します。しかし、イエスの周りの人々には、これが預言者エリヤの名前のように聞こえました。エリヤは疾風に乗せられて天に昇ったので、ユダヤ人たちは神から特別な助けが必要な時、エリヤが再び来ると信じていました。
48-49節 ここでいう酸いぶどう酒というのは、ワインビネガーと水を混ぜた飲み物で、ローマ兵が普段飲んでいるものでした。一般の人々にもよく飲まれていたかもしれません。しかし、これがイエスに与えられると、イエスの渇きをさらに増し、彼の苦しみを増すことになったと考える人もいます。これは詩篇69篇21節の成就とも見なされます。(お読みください)また、「海綿」は基本的な衛生やトイレ用のものだったかもしれません。そうであったならば、海綿を差し出す行為は深く屈辱的なものであり、イエスの十字架上での苦しみを強調するものであったと思われます。                                                   
   他の人々はその行為を止めようとしましたが、ヨハネはイエスがそれを受けたことを記録しています。ワインビネガーはワインとは異なり、アルコールを含まず、宴会で出されることはありませんでした。ですから、これを飲んだとしても、最後の晩餐で、天の御国で新しく飲む日まで、ブドウ酒を飲まないと言われた誓を破ったことにはならないのです。
50節 イエスが大声で叫んだ言葉は、ルカ23章46節に記されています。(お読みください)イエスはご自身の魂を父なる神に委ねました。その死は突然だったと考えられます。十字架につけられた人々は通常、死に至るまで数日がかかります。イエスはその死を完全に支配していました。イエスはご自分の意思で、その時間に息を引き取ったのです。誰かが彼の命を取ったのではありませんでした。ヨハネ10章18節でイエスが言ったように、父なる神の命令によって、イエスは自分の命を捨てる権威があり、またその命を取り戻す権威を持っていたのです。
  この出来事を理解するためには、その背景を知る必要があります。真昼間の暗闇は出エジプト記の第9の災いでした。第10の災いでは、主がエジプトの初子を殺されました。これを避けるために、イスラエル人たちは家の戸口に子羊の血を塗りました(出エジプト記12章21-23節参照)。過越の祭りはこの出来事を記念するものです。暗闇は午後3時頃まで続き、イエスは生きを引き取りました。その時間は、神殿で過ぎ越しの子羊がほふられる時間でした。その瞬間、イエスは魂を神に委ね、全人類のための真の過越の子羊となったのです。バプテスマのヨハネの宣言した通りでした。(ヨハネ1章29節参照)。
51節 イエスの死も奇跡的な出来事でしたが、神は更に奇跡的なしるしを示し、イエスがその使命を成し遂げ、神と人間との関係を回復したことを示されました。神殿の幕が裂けたというのです。神殿の幕は約10センチの厚さと18メートルの高さがあり、聖所と至聖所を隔てていました。その厚さと高さを考えると、人間の手では裂くことは不可能でした。上から下へと裂けたことは、神の介入を示し、神と人間との隔てが取り除かれたことを明確に示しています。
52-53節 神は更に奇跡的なしるしを示されました。地震がおき、墓が開き、聖人たちがよみがえったということです。しかし、彼らはイエスが復活した後に墓から出て、エルサレムに入りました。彼らの出現は、キリストの復活の証であり、死に対する彼の勝利のしるしでした。その後、彼らがどうなったかはわかりませんが、彼らもキリストとともに栄光に入ったと信じる者もいます。
54節 ローマ兵たちはイエスの突然の死と、それに伴った、異常な現象—暗闇や地震—を目撃しました。彼らはこれらのしるしがイエスが神の子であることを証明していると信じました。百人隊長は神の力を感じ取り、イエスがユダヤ的な意味における神の子であることを確信したと考えられます。
55-56節 忠実な女性たちは、イエスが十字架で何が起こったのかを目撃しました。マタイは、彼女たちがガリラヤからイエスに従っていたことを記録しています。彼女たちの名前が記録されていることで、後の人々が彼女たちに会い、証言を聞くことができたと考えられます。ルカ8章1-3節に見られるように、他にも多くの女性がそこにいた可能性があります。

まとめ                                                              マタイは単にイエスの十字架刑がどのように終わったのかを記録したのではありません。彼が伝えたかった三つの重要なポイントに焦点を当ててみましょう:

1. イエスは復活を確信していた
イエスは詩篇22篇の最初の節を引用しました。この詩篇は苦しみから始まり、メシアの世界的な支配の約束で終わります。このイエスの支配が世界中で認められることは、彼の復活を通じてのみ可能です。イエスの死の際に聖なる人々を復活させた神は、聖人たちの復活が確実であることを信者に示しました。これこそがイエス・キリストの福音の重要な部分です。それが、私たち信仰者の確信でなければいけません。
2. イエスは過越の子羊としての役割を果たした
午後3時頃に起こったイエスの死とその周囲の闇は、彼が世界の罪を取り除く真の過越の子羊であることを示しています。彼の犠牲と血を通して、私たちは神の永遠の死の罰から救われました。
3. イエスは自分の権威で命を捨てた
イエスは自分の死の瞬間を選びました。それは午後3時で、ちょうど過越の子羊が神殿でほふられる時間でした。これにより、神の子としてのイエスが完全に物事を支配していたことが示されています。それは、私たちの救いのためでしった。ヨハネ10章11節でイエスが言ったように、彼は羊のために命を捨てる良き羊飼いなのです。