合同礼拝(礼拝音声は有りません)
導入
最近、あるYouTubeの動画を見ました。その動画では、説教のミニストリーが異教のルーツを持つと主張されていました。YouTuberは、「金口のヨハネ」として知られるヨハネ・クリソストモスが、今日私たちが知っているような説教を導入したと論じていました。彼は、ギリシャの哲学者たちの雄弁術に影響を受け、明確でわかりやすい説教を行ったことで知られています。このギリシャの雄弁術との関連が、説教に異教的な背景を与えるとYouTuberは示唆していました。それでは、聖書が実際に説教について何を言っているのかを見ていきましょう。
本論
1. 説教は会衆の個人的聖書通読を前提としている
今日のような説教が行われる前は、神の命令は聖書を読み、暗記することでした。申命記 6:4-5, 8-9からそう考えることができます。彼らが手や額に神の言葉を書いたものを身に着けていたのは、それがかっこよかったからではありません。彼らが門や戸枠に聖書を置いたのも、装飾のためではありませんでした。大事なのは、それを読むこと、学ぶこと、そして覚えることでした。私たちも聖書を常に読み、心に根を張り、生活の中に織り込むようにしなければなりません。
2. 説教は聖書の理解を促進することを目的とする
王たちは聖書を読むことが義務付けられていましたが、普通の人々にとっては義務ではなかったようです(申命記 17:18-19を参照)。律法は羊皮紙の巻物に記されていて、とても大きなものですから、各家庭で持っているのは難しかったのではないかと思います。しかし、バビロンから帰還した後、人々は聖書を学ぼうと熱心でした。その時には、神が律法をイスラエル人に与えてから約855年が経過していました。日本の文学で言えば、枕草子を解説なしでは理解しにくいように、バビロン帰還後の人々にも聖書は理解しづらいものになっていました。ネヘミヤとレビ人たちが聖書を解説したとき、人々はそれを理解し、喜びました。説教の目的は、会衆が聖書を理解するのを助けることです。
3. 説教はキリストとその教えに確証を与える
新約聖書には説教の基本的な例が見られます。私たちの主イエス・キリストがその例を示しています。ルカ 4:16-21では、イエスがイザヤ書61:1の意味を会堂で説明します。 説教の重要な要素は、イエスが誰であるかを説明することです。この時は礼拝の中での説教ではありませんでしたが、イエスはルカ24:25-27でも同じ原則を示しています。 『使徒行伝』では、ペテロとパウロの説教においても同じ原則が見られます。彼らは神殿や会堂で説教し、イエスが救い主であることを証ししました。そして、それはイエスの教えをどのように自分たちの生活に適用すべきかに発展してい行くのです。
まとめ
説教の要件と目的を理解することで、私たちの礼拝中の聞く姿勢が神への霊的な奉納と犠牲となります。1サムエル記 15:22 参照
三つのポイントに基づいて私たちの適用を考えてみましょう
1)説教は会衆の個人的聖書通読を前提としているー聖書を継続的に読むこと
神が私たちを救ってくださったことを覚え、私たちの全存在をもって神に仕えるべきです。そのためにも私たちは聖書を継続的に読まなければなりません。1ペテロの手紙 2:2参照 ペテロは乳飲み子のようにと書いています。子育てをしたことのある方は、どれだけ頻繁に乳飲み子に授乳しなければならないかをご存知だと思います。そのように、日々繰り返し聖書の言葉を思い巡らし、聖書を読む生活をするのです。
2)説教は聖書の理解を促進することを目的とするー聖書を理解しようとする熱心さを持つこと
使徒行伝 17:11-12では、人々が熱心に聖書を調べたことが書かれています。私たちもそのような熱心さを持って聖書を理解しようとする姿勢を持ち続けることが必要です。
3)説教はキリストとその教えに確証を与えるーイエスとその教えの理解を深めること
イエスがどのような方であるかを、 旧約のメシア預言、 新約のヘブライ書などをよく理解することです。また、イエスご自身が福音書の中で証されたことを心に留めることです。
これらのことを踏まえると、牧師、説教者がするべきことは聖書の御言葉を説明することです。それが、テモテに与えられたパウロの指導の意味あいです。2 テモテ 4:2参照