礼拝音声
聖書箇所:マタイ27:27-31
説教題:イエスは王
導入
ピラトは、イエスを十字架にかけるよう群衆に迫られて、群衆を制御できませんでした。群衆の熱狂が暴動に発展することを恐れ、彼はイエスをローマ兵に引き渡して十字架にかけさせました。この箇所では、ローマ兵がイエスに加えた酷い扱いを見ることができます。今日の聖書の箇所から得られる教訓を考えましょう。
本論
27節 官邸の中というのは、ローマ兵で常に賑わっていた集合の広場です。最大600人の兵士が集まることができる広さを持っていた可能性があります。これらの兵士は通常エルサレムに駐屯しており、過越の祭りの時期にはさらに補強部隊が加わりました。
28節 ローマ兵は、十字架にかけられる犯罪者を、その犯した罪によって虐待的に扱うことがよくありました。イエスは「王である」と主張したとされていたので、兵士たちはイエスを王としてあざけりました。イエスを王らしく見せるため、彼に緋色のの外套を着せました。それはローマの軍事官や民間官吏が着る赤い短い外套であった可能性があり、赤い外套やローブは王族の象徴であったと考えられます。
29節 彼らが使った茨の枝で作られた冠は、地中海地域に自生しているJerusalem Thornsとも呼ばれる植物の枝から取られたものではないかと考えられます。そのトゲはおよそ2〜3センチの長さがあります。力任せに被せられれば、すぐに血が出たことでしょう。
イエスが持たされた葦は、王笏の意味で持たせたと考えられます。もしかすると、竹であったかもしれないと考える立場もあります。
ひざまずくことは王に対する敬意の表れであり、「万歳!」はローマ皇帝への標準的な挨拶でした。ユダヤ人が、異邦人の王や皇帝に対する表敬の表現をされるのは気持ちの良いものではなかっただろうと思われます。
30節 ユダヤ人は、異邦人の唾液を特に汚れていると考えていました。600人の兵士全員がイエスに唾を吐いたわけではないでしょうが、それでもこれは間違いなく不快で屈辱的な経験でした。
持たされた葦は、王笏の代わりでした。王笏は権威の象徴です。エステル記では、もし王がエステルに杖を差し出さなければ、彼女は死刑にされる可能性がありました。しかし、イエスに与えられた杖は、あざけりの道具でした。兵士たちはその杖を奪い取り、イエスの頭を打ちました。軍事的な鞭打ちでは、竹の棒がよく使われました。イエスの頭には茨の冠があったことを思い出してください。「繰り返し」という言葉が付け加えられているのは、動詞の時制が継続的な行動を示しているからです。繰り返し叩くのであれば、葦では弱すぎます。実際には竹だったのではないかと考えるのも自然なことです。兵士たちは、実際にお前には権威などないぞ、実際に権威を行使しているのは自分達ローマ兵士だということを示そうとして、その葦や竹を奪い取ってイエスの頭を叩いていたと考えられます。
兵士たちがイエスをあざけった方法は、イザヤ書52章14節の預言を成就させました。兵士たちは自分たちの行動がイエスがメシアであることの証拠となることに気づいていませんでした。イエスは非常に激しく打たれ、顔が殆ど認識できないほどであったと考えられます。しかし、イエスは神の御意志に従いました(1ペテロ2章23節参照)。
31節 ローマ兵がイエスをどれくらいの時間あざけったかは確かではありませんが、最終的にその残酷な遊びは終わりを迎えました。彼らは赤い外套を取り去り、イエスの元の衣服を彼に着せました。彼が受けた激しい鞭打ちを考えると、服を着替えるだけでも非常に激しい痛みを伴ったことでしょう。その後、兵士たちはイエスをプレトリウムから十字架にかける場所へと連れて行きました。既に体力がなくなっているうえに、十字架の横木を担いで坂を上って行かなければならなかったのです。
まとめ
私たちは、ローマ兵たちがイエスを王のようにあざけり、侮辱している様子を見ます。しかし、私たちはイエスが単なるあざけられた王ではなく、真の神の子であり、世界の王であることを知っています。この箇所から私たちが学べる教訓は何でしょうか?
1. 人間の神に対する反逆の深さを認識すること
兵士たちのあざけりと残酷さは、人間の神に対する罪深い反逆を示しています。これは私たちに、自分自身の罪深い性質の深さを認識させ、イエスの愛と犠牲によってその反逆から救われる必要性を痛感させます。私たちの中にも神を拒絶し、関係を否定し、その権威を否定する罪の姿勢が潜んでいることを認識しなければなりません。
2. イエスは真の王である イエスは旧約のいくつかの預言を成就し、彼がメシアであることを証明しました。誰一人として、この短期間にこれほど多くの預言を成就できる者はいません。それはイエスの使命の神性を示しています。ローマの兵士はイエスをあざけるために王と呼んで卑しめましたが、イエスこそが真の王だったのです。
3. イエスは人間の拒絶の深さを体験し、人間の苦しみに共感された
ヘブル人への手紙2章17-18節に記されているように、イエスの苦しみは私たちの痛みと拒絶を共感できるようにするためのものでした。これは特に、激しい迫害を受けていた初期のクリスチャンにとって重要な意味を持っていました。イエスはその謙遜と苦しみを受け入れることで、人間への愛の深さを示しました。ローマ兵による卑しめは、目的が有ってのことでした。
イエスをあざけり、鞭打ったローマ兵たちとは異なり、私たちはイエスが王であることを知っています。私たちはイエスにどのように応えるべきでしょうか?チャールズ・スポルジョンは次のように書いています:
「愛の冠を彼に被せ、従順でをもって彼の笏に応え、礼拝のために跪き、言葉と行いで彼を王として宣言しなさい。」(牧師による意訳)
これは、私たちがイエスに対して従順をもって敬意を表し、謙遜で礼拝し、言葉と行いを通じて彼の王権を宣言すべきであることを意味しています。