礼拝音声

聖書箇所:マタイ26:57-68
説教題:神の子であり人の子であるイエス

導入
この箇所は、イエスの最初の非公式な裁判について記述しています。この裁判は、最高祭司カヤパの前で行われ、宗教指導者たちとイエスの性質が明らかになります。聖書が私たちに何を教えているのかを共に考えましょう。

本文
57節-58節 イエスの逮捕とカヤパの前でのその後の裁判は、朝早く、恐らく午前0時から3時の間に行われました。ユダヤの法律では、夜間の裁判は禁じられていました。今回の裁判は非公式で違法でしたが、ユダヤの宗教指導者たちは気にもしませんでした。
  ペテロは、何が起こるのかを見届けるために後を追いました。イエスと一緒に死ぬことになってもついて行くと言った手前、そうしたのかもしれません。
59節 裁判が始まる前から、彼らはすでにイエスを殺すつもりでいました。死刑を宣告させるために偽証を求めました。
  十戒では偽証を禁じており、申命記19章18-19節によれば、偽証を行った者は被疑者が受けるべき刑を受けなければなりませんでした。この場合は、死刑にされるべきだったことになります。
60節-62節 彼らはしつこく偽証を求めましたが、その証言には信憑性や一貫性がありませんでした。最終的に、一つの証言が説得力の有りそうなものとして浮かび上がりました。二人の証人が出てきました。ユダヤの法律では、証言には二人以上の証人が必要とされていました(申命記19章15節)。
  彼らはイエスの言葉を歪めました(ヨハネ2章18-21節)。イエスは決して神殿を壊す意図はありませんでした。この偽証は彼らにとって強力でした。神殿を壊すことは冒涜と見なされ、またローマの総督の注意を引く可能性もあり、重大な問題を引き起こすことになるものでした。
  最高祭司は立ち上がり、イエスに対して告発と証言について答えるように迫りました。しかし、イエスは黙っており、この非公式で違法な裁判を承認しませんでした。
63節 最高祭司はさらに追求し、イエスに「お前はキリストか?」と尋ねました。ヨハネ10章24節では、イエスがキリストならはっきり言って欲しいと人々が言いましたが、その時のイエスの答えは彼らには分かりにくかったかもしれません。しかし、今回のイエスの答えは大変明確でした。
64節 イエスは「人の子」と自らを指し、自分がキリストであることを示しました。ダニエル書には、「人の子」が諸国を支配し、礼拝を受ける存在として描かれています。この言葉でイエスは、自らが神であり、支配者であり裁き主であることを明言したのです。イエスは死刑を避けるための自己弁護をしませんでした。死刑になることが明らかでも、自らが誰であるかを明言したのです。
65節-66節 大祭司は内心満足していたに違いありません。イエスの返答は、彼にとって冒涜の罪で告発するための完璧な理由となったからです。イエスをただの人間として見ていた人々にとって、彼の神であるという主張は冒涜と見なされました。怒りを示した最高祭司は、衣を引き裂き、そこにいた他の人々に向かって、イエスを死刑にすることに賛成を求めました。皆がイエスを死刑にすべきだと同意しました。
67節-68節 イエスは暴力的な扱いを受けました。この虐待を行ったのは宗教指導者ではなく、庭にいた最高祭司の僕たちでした。
唾をかける – 誰かの顔に唾を吐くことは、最大の侮辱と恥を示すものでした(民数記12章14節参照)。
殴る – これはおそらく、首やこめかみに拳で一撃を加えることを指します。背中も殴られたと思われます。
平手打ち – これは開いた手で頬を打つことを意味するかもしれません。この言葉はまた、棒で打たれることを意味することもあります。イエスが唾をかけられたことから、棒で叩いた可能性が高いと考えられます。
  群衆の嘲笑の言葉から、イエスが目隠しされていたことが示唆されます。「もしお前が大預言者モーセと同じような預言者として来るメシアなら、誰が打ったかを言い当てることができるはずだ。」これが彼らの言葉の意図でした。実際にイエスはサマリアの女の素性を言い当てたり、初対面のザアカイの名前を言い当てたりしていました。
  ユダヤの法律には、残虐行為を避けるための具体的な規則があり、唾を吐くことや侮辱的に殴ることは禁止されていました。彼らの行為は違法でした。
  マタイは旧約の預言の成就について明記していませんが、これはイザヤ書50章6節と一致します。

まとめ
大祭司、祭司長たちの態度と、イエスの態度が対照的な箇所です。そこから、私たちが確認するべきことは何でしょうか。
1. 罪に根差した方法で生きないこと
*ユダヤの宗教指導者たちは、神のもとではなく、ローマの支配下で平和と安全を求めていました。また、彼らは自らの権威を維持したいと望んでいました。
*彼らは聖書を使いながらも、神の命令には従いませんでした。これは、イエスが荒野で試練を受けた際のサタンのやり方と同じです。
*宗教指導者たちは神の意志を拒絶し、神の子を死刑にすることを選びました。彼らの行動は、ヨハネ8章44節に記された、信じないユダヤ人へのイエスの非難の言葉の通りでした。

2. イエス、私たちの救い主に希望を持ち続けること
*この箇所を読むと、何と酷いエピソードだ、次は読みたくないとまで感じる人もいるかもしれません。しかし、私たちは、この箇所に喜びと希望を見出さなければなりません。  
*イエスはすべての国を支配する「人の子」です。カヤパの裁判で不公平に裁かれ、判決を下された彼ですが、真の裁き主としてユダヤの宗教指導者たちを裁ていたことになります。ダニエル書の「人の子」には再臨の預言と考えられる部分があります。イエスの再臨と永遠の支配は私たちの最大の希望であり、信仰を持ち続ける力となります。
*イエスはメシアであり、旧約の預言の成就です。完全に信頼することのできる方です。
*イエスは、すべての信じる者のために神の救いの計画を成し遂げるために不正な裁判を耐えました。彼がこの使命を果たそうとする決意は、私たちが困難な時に慰めを得る助けとなります(ヘブル2章18節参照)