聖書箇所:マタイ26:47-56
説教題:十字架に向かって進むメシア
導入
大勢の人々がイエスを捕らえに来ました。この箇所で、イエスはユダ、ペテロ、そして群衆に話しかけました。この短い箇所で、イエスがどのような方であるかが分かります。イエスが彼らに語った言葉から学びましょう。
本論
第47節~第50節 ユダとの対話
剣と棒を持った大勢の群衆が来ました。それは、メシアは過越の祭りの際に自分の軍を召集すると考えられてたからです。過去にも何度かそのようなことがありました。だからこそ、彼らは武装して大勢でやって来たのです。祭司長たちに遣わされた者たちは神殿の警備兵だったかもしれませんが、ローマ兵も同行していたに違いありません。これは当時、ローマの総督たちにとって大きな懸念事項だったのです。
口づけと訳され語は、友情に関連していました。そうすると、ユダは友情を表す行為を合図にして友を裏切ったことになります。また、挨拶の言葉の原義は喜びを表します。本人は意識していなかったかもしれませんが、イエスの死を喜ぶ冷酷さが有りました。ここでもユダはイエスを「先生」と呼び、「主」とは呼びませんでした。
「友よ。何のために来たのですか」 という返答は、「自分が何をしているか分かっているのか?人の子を裏切るのは間違っている」という意味かもしれません。これはイエスからユダへの裁きの言葉であったかもしれません。
イエスの逮捕は神の計画の一部でした。イエスがその時でなければ、簡単に彼らから逃げることができたでしょう。 (ルカ4:28-30参照)
第51節~第54節 ペテロとの対話
共観福音書には誰が行動を起こしたかは書かれていませんが、ヨハネによると、それはシモン・ペテロでした。ペテロはイエスと共に死ぬ覚悟で、イエスを守るために剣を抜きました。
第52節 イエスの言葉は一般的な原則を示しているわけではありません。緊急の状況では、自己防衛のために力を使うことが必要なこともあります。イエスの意図は次の様に考えられます。
1. イエスの時が来たので、彼は死ななければならなかった。旧約聖書に書かれている通りです。(イエスの優先事項は神の御心を行うことでした。 54節参照)
2. 祭司長たちはイエスを逮捕するために剣と棒を持って来ましたが、彼らは後に滅ぼされることになります。紀元70年、彼らはローマ帝国と戦い、滅ぼされました。 いずれにしても、他人の命を奪うことは神の民の道ではありません。それに、イエスは72,000の天使を呼ぶことができ、それだけでエルサレムに駐屯するローマ軍を壊滅させることができました。
第55節~第56節 群衆との対話
イエスの非難の言葉が見られます。祭司長たちはイエスが神殿の境内で教えていたとき、イエスを捕まえませんでした。彼らは人々を恐れていたのです。その人々の行動は違法で不公正でした。
イエスは繰り返し旧約聖書の預言を成就することについて話しました(54, 56節)。ユダによる裏切りと弟子たちがイエスを見捨てて逃げたことが、これらの預言の成就の一部でもありました。イエスは逮捕を避けませんでした。彼は神の御心を求めていました。イエスはメシアとして十字架に向かって進んで行ったのです。
まとめ
1. イエスは地上の政治的な王ではなく、救い主でした。
2. イエスは預言を成就させるために決意を持って、神の御心を求めていました。
3. イエスはユダと祭司長たちを裁きました。
今日の朗読箇所の主な焦点は2)です。イエスは私たちの救いのために十字架に向かって進んで行かれたのです。