聖書箇所:マタイ26:31-46
説教題:神の御心が成るように
導入
過越の食事の終わりに、彼らは詩篇からの賛美歌を歌いました。その中には詩篇118篇も含まれており、これは神の救済計画がイエス・キリストを通して成就することを象徴する神殿の完成の記述が含まれています。(詩篇 118:22-23参照。イエスはマタイ21:42でこれらの節を引用しました)。その石はイエスです。隅のかしら石は、二つの解釈がありますが、重要なのは建築の最後に最上部にはめる石という理解です。それは、神殿の完成を意味します。ヨハネ2:19、21では、神殿はイエスの象徴として用いられています。イエスの時が来たのですが、まだいくつかの出来事を経なければなりませんでした。
本論
31-35節
前半の記述からわかること
1. イエスは確実に死者の中から復活する。
2. 神は弟子たちの弱さを知っておられましたが、それでも弟子たちを訓練し、宣教に送り出すことを計画していました。
31節では、ゼカリア書13:7を引用しています。羊飼いはイエスであり、群れの羊たちは弟子たちです。ゼカリアは続けて、神の慰めが群れに来ることを確約しています。つまずくと訳された語は、 脱落するという意味もあります。 彼らは山からイエスに従い続けることができませんでした。33節と35節では、ペテロのイエスに従いたいという強い意志が、他の弟子たちにも同様にあったことが述べられていす。
34節では、イエスはペテロに彼が間もなくイエスを三度否認することを予告しており、その後、鶏が鳴く前にそれが起こると言っています。鶏は毎朝必ず鳴きますから、ペテロは必ずイエスを否認するという予告になっているのです。
32節に注目する必要があります。イエスは、神の力によって自分が死者の中から復活することを確信していました。(受動不定詞が使われています。)ですから、前もって、復活したイエスを見つけたときに弟子たちが何をすべきかを教えました。神は、脱落した弟子たちを用いるつもりでした。それは最初から計画されていたことでした。イエスに反論しても無駄です。自分の弱さを受け入れ、神の計画を待つことが大切です。
36-46節
キリストの指示が私たちに示すこと
1. 神の救いの恵みを思い巡らし、共有すること
過越の祭りの夜は、遅くまで起きて神の贖いについて語ることが慣習でした。 私たちも毎日神の恵みを振り返らなければなりません。
2. 他者を支え、祈りを通じて執り成しの祈りをすること
イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に祈りの場に連れて行きました。彼は近しい弟子たちに自分の祈りを支えてほしかったのです。イエスは、助け手がいない孤独を知っておられます。目を覚ましているようと言われたのは、この最も大きな必要の時に、主は彼らが一緒に祈ることを望んでいたということです。
誘惑とは何でしょうか。
1) それは試練を意味することがあります。彼らはユダヤの宗教指導者たちによる迫害に耐えられる準備ができていなければなりませんでした。彼らは誘惑に負けてはなりません。
2) それは霊的に目を覚ましていることの難しさかもしれません。それは彼らの弱さから来ており、祈りを捧げたり、重要な霊的試練の時に目を覚まし続けることを妨げているかもしれません。これは私たちの信仰生活にも現れる現実的な誘惑です。
キリストの祈りが私たちに示すこと
1. 私たちは、苦悩と嘆願を思い切り神に伝えることができる
37, 38節はイエスがどれほど苦しんでいたかを教えています。
この杯と言う表現が出て来ます。 旧約聖書では、杯は神の怒りを象徴していました。人間の罪のために神の怒りを担い、神の父から離れることは、この世で最も恐ろしい経験と言えるでしょう。イエスはこの杯を取りのけていただけるように三回も祈りました。(39, 42, 44節参照)イエスは私たちに祈りの態度の模範を示しています。その模範は、また次のことも示しています。
2. 神の御心は私たちの意志や願いよりも優先される
このような恐ろしい使命に対しても、イエスは神の父に対する謙遜と従順を示しました。(ヘブル5:7参照) 従順の中で、彼は言いました。「起きなさい、行こう。」主の祈りに示されるように、御心が成りますようにという姿勢が必要です。
強い願いがあっても、それが叶わないときも、私たちは神の意志に従うべきです。イエスの苦難の先に神の御心が成就したように、私たちの願いが叶えられなくても、その向こうに神の御心が成就すると考えるのです。
私たちが覚えておくべきポイント
1. 神は私たちの弱さにもかかわらず、私たちをその栄光のために用いることができる。
2. 他者を助けるた、執り成すために、また、誘惑に陥らないように祈る。
3. 私たちは切実に嘆願を捧げることができるが、神の意志が優先である。
(過ぎ越しの祭り習慣のように、神の贖いと恵みをおもい巡らし、分かち合うことも忘れてはなりません。)