聖書箇所:マタイ 26:17-30
説教題:最初の聖餐

導入
前の節で述べられているように、ユダはイエスを祭司長たちに引き渡す機会をうかがっていました。とうとうその機会が訪れました。しかし、物事は彼が主導したことではありませんでした。神とイエスが、イエスが捕らえられた夜の出来事を主導したのでした。神の御心を私たちに示すために、イエスがどのようにその出来事を導いたのかを見ていきましょう。

本論
17節 – 19節: 種を入れないパンの祭りの初日というのはどの日であるかについては多くの解釈があります。ヨハネ13章と18章は、過越の食事の前日であったことを示唆しています。この見解の強みは、キリストの死と過越の子羊の屠殺が同時に行われたという点にあります。この見解は、バプテスマのヨハネの。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」という言葉に一致します。(ヨハネ1:29)
  どこで食事の準備をしましょうかという弟子たちの質問に対して、イエスは18節に見られる指示を与えました。それは彼と弟子たちにとって非常に重要な時間でしたので、彼はすでに食事を手配していたのでしょう。その理由の一つは、裏切りを計画しているユダに食事の場所が知られないようにするためだったかもしれません。都の中でというのは、過越の食事はエルサレムの城壁内で食べなければならないという規定が有ったからです。このため、エルサレムの人々は詰めかけた巡礼者に部屋を提供することが一般的でした。
  ルカによれば、ペテロとヨハネが食事の準備をしました。(ルカ22:7参照)彼らは市場を回って、13人分の肉、ハーブ、酵母を使わないパン、ワインを買わなければなりませんでした。もしかすると調理もしたかもしれません。
20節 夕方になってというのは、午後6時になってということです。当時のユダヤの習慣では、夕方が新しい一日の始まりでした。過ぎ越しの食事に必要な最低人数は10人でしたので、一、二家族で一緒にすることが一般的でした。キリストと弟子たちは一つの家族のように一緒に座ったのです。
21節 イエスはここで弟子の一人が裏切ることを予告しました。そう言うことによって、イエスの逮捕と死が偶然ではないことを示したのです。それは神の計画だったということです。
23節 「鉢に手を浸した者」という表現が有ります。オリーブ油とハーブなどを混ぜたものが置かれ、パンを浸したりして食べるものです。実際には共に食事をした全ての弟子が手を浸しました。この言葉は、親しい友人が裏切ることを示すものであり、ユダを指すものではありませんでした。
24節前半 イエスの言葉は、 キリストは旧約聖書とキリスト自身の言葉に予言された方法で死ななければならないことを示しています。(マタイ26:2, 17:22-23、イザヤ53:8-9参照)
24節後半 「生まれなければ良かった」というのは、旧約聖書における馴染みのあるフレーズですが、ユダに対する恐ろしい現実をもって用いられています。
25節 ユダの罪深い態度が彼の言葉に現れています。他の弟子たちとは違い、ユダはイエスを「先生」と呼びました。彼にとってイエスは「主」ではなかったのです。また、彼はイエスを祭司長たちに引き渡す機会をうかがっている事実を隠そうとしました。「いや、そうだ」:直訳すると「あなたがちょうどそう言った。」というような意味になり、彼自身が裏切ることを明らかにしたのです。これらの言葉は他の人には聞こえないように低い声で語られたようです。イエスは全てを見通していたのです。詳細はヨハネ13章に記されています。その後、イエスはユダにしようとしていることを直ぐにするように言いました。彼は家を出て行きました。
26節–29節 ユダが出て行った後、イエスは聖餐を制定しました。過越の晩餐の主人はパンを裂き、客たちと分け合いました。種なしパンは酵母を使わないパンです。酵母、イーストは罪と偽りの教えを象徴します。種なしパンは、イエスの象徴でもあります。イエスは罪のない神の子であり、真の神の言葉だからです。「これはわたしのからだです」と言われた時、イエスは十字架で鞭打たれ、釘で体を裂かれることを心に留めていたはずです。私たちがキリストを信じ、聖餐のパンを信仰をもって受ける時、主の受難のもたらす力が私たちの中でなんらかの影響を及ぼしているはずです。
   晩餐の主人が杯を分け合うことも過越の食事の一部でした。イエスが皆と言ったのは、神の家族として一緒にという意味だったことでしょう。これがわたしの契約の血であると言われました。旧約では契約は犠牲の血によって確定されました。杯は、信者の罪を赦すために流されたキリストの血を象徴しています。したがって、「多くの人のために」ということになるのです。(ヨハネ3:16参照)
29節 過越の杯については、その手順を理解していなければなりません。過越の晩餐中に飲まれる四つの杯は、出エジプト記6:6-7における神の四つの約束に基づいています。1. エジプトの重荷からの解放。2. 奴隷状態からの救い。3. 贖い。4. 神の民とすること。聖餐は三番目の杯を飲みながら制定されました。それは、イエス・キリストの血による贖いを象徴しています。
  ユダはイエスの言葉によって生きなかったので、パン種、酵母で象徴される人物として、、聖餐から排除されました。彼は贖われておらず、神の民には加えられていなかったので、三番目の杯に与ることができなかったのです。
  その後、イエスは誓いを立てました。彼は神の民を神の王国に完全に迎え入れるまでワインを飲むことはないと言いました。それには過越の晩餐の四番目の杯が含まれていました。イエスはこれ以降ワインを飲むことはありませんでしたが、イエスは神の王国で弟子たちと宴を開き、そこで四番目の杯を取るのです。彼の昇天後、この約束は弟子たちにとって大きな希望となったはずです。
30節 過越の晩餐は詩篇115-118を歌うか朗読することで終了しました。(神の救いに対する賛美と感謝の詩篇です。)オリーブ山は彼らがよく集まった場所でした。イエスはユダによって導かれる祭司長たちがすぐに来て彼を捕らえに来ることを知りながら、大胆にそこに行きました。イエスは神の計画と預言を成就し、またその誓を果たすのでした。

まとめ
1.聖餐はイエスの贖いの働きを記念するものである                                  イエスの死と復活は、神の意志に基づいた神の計画と預言の成就でした。それは偶然ではありませんでした。                                                               2.聖餐は神の家族に与えられる                                             聖餐に与る者は、キリストの教えに従って生きるように召されています。世の知恵や世俗的な哲学は、神の民の中には存在すべきではありません。イエス・キリストとその教えこそ、酵母を使わないパン、種をいれないパンです。                                                       3.聖餐は神の王国を象徴する                                               過ぎ越しの食事はエルサレムの城壁内で食べなけばなりませんでした。エルサレムは天国の象徴でもあります。黙示録には、新しいエルサレムが天から降りて来ると記されています。聖餐に与る者は、天国の到来と永遠の命の希望を心に留めるべきです。