礼拝音声は有りません
ここ数年、私は「クリスマス」という言葉の意味を説明してきました。この言葉は「キリスト」と「マス(礼拝)」を組み合わせたもので、キリストの礼拝と言う意味が有ります。つまり、ある意味では、私たちは毎週日曜日にクリスマスを迎えているのです。今年は、もう一つの言葉が私の注目を引きました。それは「アドベント」です。いくつかの辞書に見られる定義と説明は次の通りです。
出来事が起こること、または人が到着すること: -クリスマスの前の4週間の期間 -a:キリストの降誕 -b:キリストの再臨
アドベントの期間には、私たちはクリスマスの日を楽しみに待っています。それでは、あなたはキリストの再臨を楽しみに待っているでしょうか?キリストの初めての来臨は過去の出来事です。彼の再臨は未来の出来事です。想像してみてください。アドベントの間、あなたは昨年楽しんだクリスマスの集まりを思い出しています。また、今年のクリスマスの日に行われるクリスマスの集まりを楽しみにしています。さて、どちらの方があなたにとってワクワクすることでしょうか?昨年のクリスマスの集まりか、それとも今年のクリスマスの集まりか?キリストの初めての来臨を考えるとき、私たちは神の大いなる愛と贈り物に感動します。しかし、私たちはキリストの再臨を考えるとき、もっと大きな興奮を感じるべきです。
私たちの期待はの様子は、人々がバプテスマのヨハネがメシアではないかと期待した様子に擬えることができると思います。(ルカ3:15参照) 期待して待つと訳された語は、原語では一語で、 προσδοκάω プロスドカオーというものです。この言葉はペテロが次の様に用いています。「神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」 (2ペテロ3:12)早めるというのは気持ちの問題です。ヤコブはラケルと結婚するために七年間働きましたが、それは彼にとってはほんの数日ように感じられました。
イエスはヨハネ17:24で弟子たちにイエスの栄光を見せてくださいと言いました。 私たちもそれを見るのです。ヨハネの黙示録21:23では、イエスの栄光が新しい世界を照らすと書いて有ります。 私たちもそれを見るのです。ペテロは私たちがキリストにおいて持つ希望と期待を神に賛美しました。( 1ペテロ1:3-6参照)
☆キリストの初めての来臨を覚えることは大切です。しかし、キリストの再臨の希望がないクリスマスの喜びは意味がありません。
これから起こることに目を向けましょう。
パウロは告白しました。「主よ、来てください」(1コリント16:22)
ヨハネは告白しました。「アーメン。主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)
☆再臨というもっと大きな喜びが待っていることを心に留めていこうではありませんか。