礼拝音声

導入)
  イエスはオリーブ山の垂訓を終えると、間近になった自分の死を予告します。直前までイエスはダニエル書に記された人の子であり、最後の審判の席に座るって諸国民を裁く王だという表明を聞いていた弟子たちは、困惑したのではないかと思われます。聖霊がマタイを通してこの箇所から伝えようとしたことを探ってみましょう。


本論)
1節-2節 イエスはこれまでにもご自身の死を少なくとも三回予告して来られました。今回の予告は最後のものであり、日程についても述べられたものでした。
3節- 5節 祭司長や律法学者などがイエスを殺す相談をしているところです。これまでも罠にかけようとしたのですが、ことごとく失敗しました。今回は、どんな汚い手を使ってでも、必ず殺すという決意が示されたと考えられます。このようにして、イエスが予告した神の御計画の通りに物事は進んでいました。イエスは十字架の上で死ななければならなかったのです。
  祭司長たちは、民衆に妨げられることを気にしています。二日程前に、イエスがエルサレムに入る時に、民衆は「ダビデの子にホサナ」と叫んでイエスを歓迎したのですから、彼らがイエスを捕縛したりしたら、暴動が起こることは容易に想像がつきました。
6節 イエスはベタニヤの、ツァラトに犯されたシモンの家にいました。そういう病気があれば、律法的には穢れていることになりますから、人々がその家に集まることはできません。ですから、このシモンは、過去にイエスに癒されたのだと理解することができます。
7節 女が入って来たということですが、ヨハネによる福音書では、ベタニヤのマリアだと記されています。石膏のつぼと訳されていますが、メノウのような石をくり抜いて作ったもので、軟膏や油を保存するのに良いとされていました。フラスコのような形に作られ、細長い首を折って中身を取り出しました。高価な香油は、ヒマラヤ山系の高山から採取される植物が原料でインドから輸入されたので値段が高かったのです。食事に招いた客に香油を塗るのは、もてなしの方法でしたが、マリアのようにたっぷり用いることはありませんでした。
8節-9節 弟子たちが憤慨しました。憤慨すると訳された語には、大いに腹を立てる、機嫌を損ねるという意味が有りますが、義憤を表すことも多くある言葉でした。義憤の理由は、貧しい者に施しができただろうというものでした。というのは、祭りの時には特に貧しい人たちに施しをすることが奨励されていたからです。。
10節 イエスはマリアの心を理解していましたし、違うお考えを持っていました。彼女のしたことは、立派なことだと言われました。気高い、優れている、名誉の有る、という意味のある言葉です。
11節 どうして立派なことなのかの説明が始まります。先ず、イエスはいつまでも一緒ではないということが述べられています。イエスはバプテスマのヨハネの弟子たちとの断食問答においても、ご自身が取り去られる時が来ることは予告しておられました。(マタイ9:15参照)
12節 立派なことである理由の中心は、彼女がイエスの埋葬の用意をしてくれたことにありました。埋葬のために遺体に香油や香料を塗るのは一般的な習慣でした。(2歴代誌16:14にアサ王の事例が出ています。)この時の香油の香りは、イエスがアリマタヤのヨセフが用意した墓に納められた時にも残っていたと考えられます。
13節 この福音が宣べ伝えられる所ならどこでもマリアのしたことは記念として語られるというのはどうしてでしょうか。それは、「この福音」に鍵が有ると言えるでしょう。人の子であるイエスが十字架にかかって死に、三日目に復活することにより、またそのことを信じることによって人は罪が赦され、永遠の命を得るという福音です。次のようなことが推察されます。
1)少なくともベタニヤのマリアはイエスの死と復活を信じていた。
2)石膏のつぼで保存された香油は、多くの独身女性にとっては結婚資金でした。持参金として用いられたりしました。それをささげることによって、キリストの花嫁である教会の予表、シンボルになったと考えられます。
これらの理由以外に、マリアが福音の語られる所ではどこででも記念として覚えられる理由が有るでしょうか。

14節 ここで、イスカリオテのユダの裏切り行為の記述に移ります。ユダにそんな行動を取らせた要因は幾つか想像できます。
1)ベタニアのマリアを叱ったのはこのユダだったとヨハネは記録しています。ところが、イエスに諫められてしまったので、腹が立ったのかもしれません。
2)メシアは過ぎ越しの祭りの時にエルサレムで挙兵すると考えられていたのに、行動を起こさないことに裏切られたと感じて腹を立てた。
3)イエスが祭りの期間に死ぬことを予告したので、裏切られたと感じて腹を立てた。
そんな時に、祭司長たちのイエスを殺す相談の噂が耳に入ったりしたのかもしれません。
ユダが合意した銀貨三十枚と言う値段は、比較的安い値段であったと考えられます。一般的な奴隷の値段とでした。自分の師として仰いできた人物を、奴隷の値段に売り渡したのです。

本日の朗読箇所の構造
1)イエスが自分の死を予告する。-神の御心、神の救いの計画。
2)イエスがマリアを通してご自身の死と復活を確約する。-神の御心
3)ユダがイエスの死への道備えをする。-神の御心、神の救いの計画の実現に動き始める。 

まとめ)
マタイの記録には、次のような意図が含まれているのではないでしょうか。
1)神の計画はその計画通りに成就しなければならない
 イエスもこれらのことは起こらなければならないと伝えています。(マタイ16:21参照)罪の贖いは血と命でなされなければなりません、(レビ17:11、へブル9:22参照)サタンの力がイエスによって砕かれることは、創世記3:15で預言されています。
2)神の計画は信仰を通して私たちの中に成就しなければならない
  13節でイエスが示されたように、イエスの死と復活を信じることが福音の要点です。ベタニアはこの福音を象徴する場所です。ベタニアでラザロは復活の予表としてよみがえりました。(ヨハネ11:23-27参照)イエスの昇天さえもベタニアでのことでした。(ルカ24:50-51参照)
3)主に最善をささげなさい 
  イエスの埋葬の準備のためには、香油をすべて用いる必要はなかったでしょう。けれども敢えてマリアはそうしたのです。彼女は自分の蓄えのすべてをささげたことになります。命をささげるような行為と言えたかもしれません。ユダは銀三十枚、約120デナリでイエスを売りました。マリアがささげた香油は300でなりの価値がありました。私たちは最善を主にささげているでしょうか。信仰、礼拝、奉仕、献金、日々の歩み、について、頻繁にそのように問う必要があります。