礼拝音声

聖書箇所:マタイ25:31-46
説教題:最後の審判

導入)
  この朗読箇所は、オリーブ山の垂訓の最後の例話です。イエスが最後の審判における裁判官であり王であるという部分に注目するものと言えると思います。内容を追って確認してみましょう。

本論)
31節 「人の子」についての記述はダニエル7:13-14 に出て来ます。イエスはヨハネ5:27で、公けに自分がその人の子であると明言しています。ダニエル書の記述の通り、イエスには永遠に続く王国が与えられるのです。イエスは王座につき、王の仕事として人々を裁くのです。
32節- 33節 ここではイエスが誰を裁くのかに注意する必要があります。このような例話においては、登場する人物が何を表すかをはっきり理解する必要があります。10人の乙女の例話は、証人としてのクリスチャンの話です。タラントを委ねられたしもべの例話は、パリサイ人やイエスの弟子たちのような宗教的指導者たちの話です。この例話における「すべての国々の民」という表現は、異邦人を指す表現です。イエスが最後の審判において、異邦人たちに対してすることが説明されている例話であるという理解が必要です。
  羊飼いが羊と山羊を分けるように、という表現の意味も明確にしなければなりません。羊と山羊は一緒に飼われることが多かったのです。しかし、山羊はより暖かい環境が必要であるために、気温の下がる夜になると、小屋に入れられ、羊は屋外に置かれました。要点は、異邦人はきっちり二種類の集団に分けられるということです。
  右側と左側に分けられることは次のことを示唆します。右側は、信頼される者の位置と考えられます。日本語でだれそれは社長の右腕だという表現をすれば、社長がその人物を信頼していることがうかがえるのと同様です。きっちり二種類の集団に分けられる要素は、王なるイエスに信頼されているか、信頼されていないかということになるわけです。
34節 審判において王なるイエスが右側に分けられた異邦人たちに与える判決は、「御国を継ぎなさい」というものです。弟子たちはこれを聞いて驚いたかもしれません。ユダヤ人の伝統においては、御国はユダヤ人のために用意されたものだと理解されていたからです。しかし、この例話では、異邦人たちにも与えられるのです。
  世の初めからというのは、天地創造の初めから義人のためにそなえられていたことを表します。
35節-36節 判決文には理由の記述があります。具体的な説明は省きますが、異邦人たちが王なるイエスを助けたからだということになります。
37節-39節 判決の理由を聞いて、右側に分けられた異邦人たちは当惑します。彼らは王座にいるイエスに直接会ったこともないし、助けた記憶もないからです。それで、いつそのようなことをしましたかと尋ねているのです。彼らは地上で過ごした時に、ある人たちを助けていたのです。
40節 王なるイエスの説明によると、確かに彼らはイエスを直接助けたことはありませんでした。彼らが助けたのは、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」だとされています。イエスは弟子たちをそのように呼ばれました。(マタイ4:10参照)イエスはまた、自分を信じる者たちをそのように呼ばれました。(マタイ18:6参照)兄弟たちという表現は、イエスを信じる者にも用いられていますが、狭義においてはユダヤ人と考えることができます。

41節 ここで王であり裁判官であるイエスは左側の異邦人たちに判決を言い渡します。ここからの流れは、右側にいた異邦人たちに語られたことと並行しておおり、反対の内容になっています。彼らは、呪われ、王の前から追放されるのです。その行く先は、神が悪魔とその使いのために用意した永遠の火だというのです。左側の異邦人たちは、神のみ心に従わなかったということがその共通点です。
42節-43節 ここでもイエスは判決の理由を述べますが、その内容は丁度右側の異邦人たちに対して述べた理由と反対の内容になっています。彼らは困難な時にイエスを助けなかったということです。
44節-45節 左側の異邦人たちも当惑します。イエスに会うのはこれが初めてかもしれません。それに、誰かを助けた経験なら彼らにもあったかもしれません。しかし、それでは十分ではなかったのです。それは、助けた相手が、「これらの最も小さい者のひとり」ではなかったからです。

46節 ここで、王が両者への判決をくり返して言い渡すことでこの例話は締めくくられています。王なるイエスは、繰り返し右側に置かれた異邦人たちを正しい人たちと呼んでいます。この表現は、ユダヤ人的には選民としてのユダヤ人を表すものでした。異邦人がユダヤ人扱いされている表現に、イエスの弟子たちは違和感を持ったかもしれませんが、それが神の御計画であり御心だったのです。

確認するべき点
1)この異邦人たちは誰なのか
  私たちも異邦人です。この話は私達にどのように関係があるのでしょうか。この異邦人はクリスチャンではないかもしれません。何故ならば、クリスチャンは再臨の時にイエスと共に天に携え上げられて、永遠に主と生きることが決まっているからです。(1テサロニケ4:16-17参照)このことを踏まえて、聖書学者たちは、これは、千年王国の後の最後の審判ではないかと考えます。ユダヤ人やクリスチャンなどの選ばれた人たちは、すでに永遠の命に入れられています。その後に、千年王国を過ごした人々の最後の審判があるのです。その時に、その異邦人が、千年王国の期間に試練を通るユダヤ人に対してどのように振る舞ったかが問われていると考えられます。

2)どうしてイエスは右側の異邦人に永遠の命を与えるのか
  私たちの福音では、イエスを救い主と信じる者が死から命に移されるのです。しかし、この例話においては、異邦人の行いによって永遠の命が与えられていることになります。このイエスの例話は聖書的な原則に沿っているのでしょうか。
  イエスのここでの判決は、神とアブラハムの契約に基づいていると考えることができます。(創世記12:1-3参照)神は、アブラハムを祝福する者を祝福すると約束されました。それは、彼から生まれる子孫についても適用されるのです。すると、千年王国の期間に限らず、すべての世代の人々にこの契約の原則は適用されると言えます。ヨハネ14:6においては、イエスの弟子に水一杯でも与えるならば、その人は決して報いにもれることはないと書かれています。その祝福や報いの意味するところが、神と共に生きる永遠の命でないならば、どんな意味があるでしょうか。
  神はご自身の契約、約束に忠実なお方です。そして、父なる神に審判を委ねられた王なるイエスの判決を通して彼らは父なる神のみもとに来ることが許されるのです。

まとめ)
私たちクリスチャンがこの例話から読み取るべき原則を考えてみます。
1)イエスは預言された人の子、救い主であり、王である
 イエスは捕らえられた後、大祭司の尋問においても、ご自身がダニエル書に預言されている人の子であると認めました。(26:53-64参照)そのことの故に、大祭司はイエスを不敬罪で死刑と定めたのです。しかし、イエスが最後の審判において裁きの座に着かれる時、イエスこそが御国の王なのです。

2)神はご自身の契約に忠実な方である
  神は聖書を通して幾つかの契約、約束をしています。神は約束に忠実な方です。約束に従って私たちには救い主なるイエスが与えられました。アブラハムへの契約が守られるということは、私たちへのイエスの血による救いの契約も確かだということなのです。

3)イエスの兄弟たちの最も小さい者たちのひとりを助けよう 
  機会が与えられたならば、困難な目に遭っているユダヤ人をたすけましょう。また、イエスの律法に従って、霊のアブラハムの子孫である同信のクリスチャンたちが困難な時に助けましょう。