礼拝音声
聖書箇所:ピリピ 3:1-11
説教題:ごみくずではなく、主にあって喜べ
導入)
パウロはピリピ人への手紙の1章では、ピリピの教会のクリスチャンの良い霊的な歩みを喜んでいると言っています。しかし、彼らにも問題が有りました。2章では、彼らの中に分裂や自己中心が有ると指摘しています。続いて3章でもことなった問題について述べています。その内容を順を追って確かめてみましょう。
本論)
1)主にあって喜びなさい(1節-3節)
1節「最後に」と書いてありますが、実際の意味は題材が変わることを示すもので、「更に」とか「加えて」という意味で理解されるものです。そして、その中心的な命令が、「主にあって喜びなさい」というものでした。そういう実践をしている時に、ピリピの教会の人たちの信仰と心は安全だというのです。安全と訳された語には、安定とか確実さという意味が有ります。BDAG という辞典では、誰かの(神の)最大の関心の的となること、安全という定義が出ています。そういう喜びが重要であるために、パウロは何度でもこのことを伝えたいと思っているのです。
ここで、二つのことを確認しなければなりません。
1)主にあって喜ばないなら、何によって喜んでいるのか。
2)主にあって喜ぶとは、どのようなことなのか。
2節 この節が最初の確認事項の回答になっています。それは、犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者、という表現でわかります。ピリピの教会にはユダヤ主義者の一団がいたと考えられます。犬は野犬のイメージです。律法的にも汚れた動物で、群れをなして行動し、乱暴で命を脅かす存在です。彼らの教えに従うと、霊的な命が失われかねません。悪い働き人というのは、間違った教えのために一生懸命働く人のイメージです。割礼を尊び、割礼が無ければ救われないとまで言うような人たちでした。
私達の聖書には肉体だけの割礼という記述が有ります。ここでは、割礼を指す言葉としてカタトーメイというギリシャ語が用いられています。それは、単純に切ること、切除することを表すもので、普段は割礼のために用いられない語なのです。雰囲気としては「切除しただけの奴ら」という雰囲気になるでしょう。彼らの割礼はユダヤ教的にもキリスト教的にも意味の無いものでした。ユダヤ教を離れたの人の割礼、キリスト教において求められていない割礼なのですから。彼らは、律法を守ることを喜んでいました。幅広く言えば、人間的な伝統、経験、能力にあって喜んでおり、主にあって喜んでいなかったのです。
3 節 この節が二つ目の確認事項への回答となります。主にあって喜ぶ者は、真の割礼の者と言えるでしょう。それは、真の神の民という意味です。ここでは、ユダヤ人の割礼を表すカタトーメイというギリシャ語が用いられています。ユダヤ人に割礼が与えられたのは、神の契約の民であることを表すしるしのためでした。クリスチャンは、イエスの十字架の贖いと聖霊によるキリストとの特別な一致、融合をした者です。そして、真の割礼の者の実践がこの節にはしめされています。
一つ目は、神の霊によって礼拝をするということです。人間的なプライドに導くこの世の霊、サタンの霊ではなく、神の霊によって礼拝をすることです。
二つ目は、キリスト・イエスを誇るということです。誇ると訳された語にはほめたたえるという意味もあります。私達は自分の功績ではなく、キリスト・イエスの御業を誇り、ほめたたえるのです。
三つ目は、人間的なものを頼みとしないということです。ユダヤ主義者たちが割礼という人間的でこの世的なプライドに自信を持っていたのとは異なり、私達にはキリストだけが我々の自信や確信の源でなければなりません。それに何も付け足しをしてはいけないのです。
ここで、パウロは、主にあって喜ぶことと、人間的でこの世の属する事柄にあって喜ぶことの対比、対決をしめしています。預言者エレミヤも同様な対比を示しています。(エレミヤ9:23-25をお読みください。)
2)この世に属する自信、確信は無価値である(4節-7節)
4節 パウロのこれまでの説明は、ユダヤ主義者たちに対する負け惜しみのようなものではありません。パウロはそのユダヤ主義者たちの中にいたとしても、一番になれる人物でした。
5節 先ず、彼の出自にかかわる内容が述べられています。八日目の割礼というのは、正統なユダヤ人の割礼です。他の民族では13日目だったり、大人になって改宗した時に受けたりしました。ベニヤミン族であることは誇り高いことでした。ヤコブの最愛の妻ラケルから生まれたベニヤミン族の子孫であること、イスラエル統一王国の初代王サウルはベニヤミン族から出たこと、国が分裂した時に南ユダ王国につき、捕囚から帰還人たちに含まれていたことなどが要因として挙げられます。日本で言えば、自分が源氏の子孫だとか、平家の子孫だとかいうような感じになるのでしょう。きっすいのへブル人というのは、両親が共にユダヤ人だということです。彼はユダヤ領内で生まれてはいませんでしたが、純粋なユダヤ人の血筋なのです。
6節 続いて、パウロは自分の実践にかかわる事柄を述べます。律法をきちんと守るパリサイ人でした。ユダヤ教に熱心で、教えを守るために当時新興宗教であったキリスト教を迫害するほどでした。律法を厳しく、落ち度なく守って周囲に認められていました。ユダヤ主義者から見ても、パウロは完璧だったのです。
7節 そのような事柄が、主にあって、キリストにあって喜ぶ者となったパウロには損だと思えるようになりました。損と訳された語は、もっと言えば損害を表すものです。思うようになったと言う語は、熟慮した後に、という語感が有ります。落ち着いて人間的な価値とキリスト・イエスにある価値を比較したらそういう結論になったということです。この地上でしか意味のないものは、天国の栄光の価値と比較したら、得ではないどころか、損害でさえあるというのです。何故ならば、それに拘れば、永遠の天国の栄光を失うことになるからです。
3)キリストを知る何にも勝る価値に焦点を当てなさい(8節-11節)
8節 天の御国は私達のすべてを要求します。天の御国は遥かに価値が高いのです。そのことは、イエスの語られた隠された宝や真珠の例話にも表されています。(マタイ 13:44-46をお読みください。)宝や良い真珠をみつけた人は、持ち物の全部を売り払ってそれを求めるのです。私達も、自分のプライドも含めて全てと交換に天の御国を得ようとしなければなりません。
パウロはそれまで得だと思っていたことをちりあくたと思っていると言いました。ちりあくたと訳された語は、生ごみ、動物の糞を指す語で、原意は犬に投げつけるもの、だそうです。神の標準から見たら、人間の考える誇りとか徳目などは、ごみのようなものなのです。旧約の預言者もそのことを示しています。(イザヤ64:6 参照)
この事実を悟ると、私達の霊の目が開かれます。そして、キリストを得ると言える知識、体験、関係が開かれるのです。
9節から11節には、三つの事柄が繰り返し述べられています。それは、義、信仰、復活です。キリストの中にある者と認められるには、キリストへの信仰を通して与えられる義が必要です。それは、律法や割礼を通して来るのではありません。むしろ、そのような誇りを捨てる時に、私達はもっとキリストを体験し、キリストの中にある者として確立されていくのです。パウロは、キリストにある人生の現実、実態を探求していたのです。そして、キリストを知ることは、キリストの復活を知り、信じることによらなければ完成しないのです。キリストの死と復活の力が私達の救いを可能にします。そのことの知識と信仰が、私達に霊的な実を結ぶことを可能にします。また、そのことが私達に永遠の命の希望を与え、忍耐力を与えるのです。復活の希望があれば、迫害やクリスチャンとして生活する中で出会う困難に耐えることができます。その時、私達はイエスと共に苦しみ、イエスも私達と共に苦しみ、執り成していてくださるのです。
ある書物に出て来た証です。日本のとある地方の夫婦のうち、妻がキリスト教の信仰を持ちました。夫は信仰に反対し、妻が夜祈祷会に出かけたりすると、玄関に鍵をかけて家に入れないようにしたそうです。妻は度々玄関の前で一夜を過ごしたそうです。しかし、朝になって夫が玄関を開けると、妻は「おはようございます。朝ごはんの支度をします。」と言って、何事もなかったかのように一日を始めるのでした。その信仰の確かさに心を動かされて、夫の後に信仰を持つようになったそうです。そのような希望の力の源が、私達にはあるのです。
私たちは、聖霊によってキリストの体なる教会に結び合わされ、イエスの死と復活に結ぶ合わされて信仰の現実を生きるのです。私たちは、このような奇跡的にあキリストとの一致を認識し、それを日々喜び祝う心を持っていなければなりません。
まとめ)
1)主にあって喜びなさい(1節-3節)
キリストにあって確信、自信を持ちましょう。イエスを信じる信仰によって創造主なる神が私たちを良い存在、義なる者と宣言してくださるのです。それは、一時的な現世の富、地位、平安によっては得られないのです。イエスを通して与えられる祝福によってのみそれをいただくことができます。イエスのしてくださったことを、繰り返しつぶさに思い出し、主にあって喜びながら生活しましょう。
2)この世に属する自信、確信は無価値である(4節-7節)
イエスを通して与えられる永遠の栄光の命に比べれば、この世のプライドや特権は、意味がなく、私達の信仰に損害を与えるものでしかありません。私達は部屋の中に生ごみやペットの糞を放置しません。放置すれば悪臭がし、蛆がわき、床や壁を汚したり腐食させたりします。それらを日々取り除いて生きるのです。
3)キリストを知る何にも勝る価値に焦点を当てなさい(8節-11節)
私達は日々の生活の中でキリストを体験しなければなりません。私達の生活はキリストの復活の力に動機づけられていなければなりません。死と復活をもって私達を救い出してくださった主が私たちと共に歩んでくださるインマヌエルの主なのです。
何にしても、パウロが繰り返し語り掛けているように、主にあって喜ぶことが日々私たちが踏み出すべき最初の一歩なのです。