説教音声
聖書箇所:1サムエル 21:1-15
説教題:私達の弱さにもかかわらず
導入)
ダビデはヨナタンの助を得て、サウル王が自分を殺そうとしていることを確かめ、逃亡生活に入ることになりました。本日の朗読に出て来る話は、その直後のことと考えられます。この出来事の記録を通して、神のみ心を求めていきましょう。
本論)
1節 ノブは祭司の町でした。当時は、契約の箱を納めた会見の天幕もそこにありました。何故ダビデがその町を訪ねたかは明らかには示されていませんが、22章15節のアヒメレクの証言から考えると、祭司に祈って欲しかったのではないかと思われます。
ダビデは親衛隊の隊長でしたし、戦闘に出れば部下を持った隊長でしたから、一人で行動するのは確かに普通ではありませんでした。アヒメレクの質問は自然なことでした。
2節 ダビデの説明は嘘でした。マタイ12:3にあるイエスの「ともの者」という説明から考えると、同行する仲間の兵士はいたかもしれませんが、サウルの急な命令など有りませんでした。
3 節 ダビデは神のみ心を求めたり、神の祝福や加護を求める祈りの他に、必要なものがありました。彼は空腹だったのです。仲間のことも考えて、パン五つと言ったのかもしれません。18節 ところが三人目のしもべは、地面を掘って預かったお金を埋めてしまいました。実は、大事なものを地面を掘って埋めておくのは、私達が大事な物を金庫に入れるの同様に、当時は普通のことでした。だから、畑に埋まっていた宝の例話語られたりしたのです。
4-6節 聖別されたパンというのは、会見の幕屋の中で、神の恵みを覚え感謝するために供えられるパンのことです。およそ2㎏の小麦粉から12個作って供えられました。このパンは安息日に新しいパンと取り替えられ、祭司達が食べることになっていました。また、兵士も女を遠ざけていれば食べることができました。その日は安息日でしたし、逃亡生活を始めたわけですから、当然ダビデはパンが食べられる状態でした。
7節 ここにドエグというエドム人が引き留められていたと記されています。どうして異邦人がそこにいたのでしょうか。おそらく、サウル王がエドム人を攻撃した時に、羊飼いとして優秀な者と認めて、奴隷として連れて来たのでしょう。引き留めると訳された語は、召集されるという意味も有ります。様々な解釈が存在しますが、安息人には旅をすることが禁じられていたので、たまたま移動できずにノブに留まっていたということではないかと推測されます。後に、このドエグの証言によって、アヒメレクをはじめとする多数の祭司が殺されました。ここの記述はその伏線になっています。アビメレクが死ななければならなかったのは、神を軽んじたということで大祭司エリの子孫の滅びが預言されたことの成就の一部だと考えられます。
8-9節 ダビデが武器を求める時の説明も現実的ではありません。彼は再び嘘をついたことになります。ゴリアテの剣が側にあったのは、戦勝記念として、神への感謝の意味で保存されていたものです。
10節 この直後に、ダビデはガテの王、アキシュの所に逃げて行きます。それはペリシテ人の領地でした。強敵であるペリシテ人の領地に行けば、サウル王も追って来ないと判断したのでしょう。目立つことや災難が及ぶことを避けるために、ともの者はどこかにおいてきたと思われます。
11節-12節 ダビデがどのようにしてアキシュのもとに来たかは定かではありません。詩編の記述では、捕らえられたということです。アキシュの家来たちはダビデを知っていました。そのことが11節の彼らの言葉からわかります。もしアキシュがダビデを本人と認めれば、死刑になるかもしれませんでした。
13節-15節 この状況を大変恐れたダビデは、何とかしてそこから抜け出すために、気が狂ったふりをすることにしました。それは、当時の迷信として、気が狂った人は、神々か悪霊の影響の下にあると考えられていました。そのような人を取り押さえると、神々か悪霊の怒りが災厄をもたらすと思っていました。また、髭は成人男性にとって大事なもので、汚れた髭は恥ずかしいものと思われていました。当然アキシュにはそんな状態のダビデは必要ありませんでした。
さて、ここで私達が考えるべきことがあります。この記録の目的はなんであるかということです。
私達ができごとにだけ目を留めれば、ダビデが神に信頼しないで嘘を含む自分の愚かな方法で状況を切り抜けようとした失敗の記録のように見えます。箴言29:25でも、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」という警告が有ります。彼の状態はどう理解したら良いのでしょうか。
ダビデの場合は、聖書の中にもっと参考になる箇所が有るのです。
詩編56編の副題には、「ペリシテ人が、ガテでダビデを捕らえたときに」と有ります。3、4、11節には神への信頼が述べられ、10節には神への賛美のことばが述べられています。ダビデは不信仰の罪を犯すという失敗をしましたが、その中にあっても神への信頼がその信仰の土台に有ったことが示されています。
詩編34編の副題には「彼がアビメレクの前で頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき」と有ります。アビメレクというのは、王位の称号で、アキシュが個人名ということです。1、4、18、22節の記述を見ると、そのようにふるまう中でも、神をほめたたえ、神の助けを求め続けていたことが示されています。
これらのことを考え合わせると、この1サムエルの記録を通して、私達は神の慈愛と恵みに目を留めるべきではないでしょうか。34編4、6、8、18節を見ると、その弱さにも関わらず、ダビデは主を呼び求めて救われたことがわかります。また、34編15、17、19節は、その弱さにも関わらず、ダビデは「正しい者」とされています。
1サムエルは、この後、ダビデのふるまいを非難するような記述は無く、何事も無かったかのように続いていきます。この箇所は、困難と弱さの中にあっても神の御名を呼び求める人々に対する神の慈愛と恵みを指しているものなのです。
まとめ)
クリスチャンも困難な時を過ごすことがあります。緊急事態と思われる状況では、私達は神への信頼を忘れ、人間的な方法で対処してしまうことがあります。しかし、神を離れては私達には何もできないのです。(ヨハネ15:5参照)私達の弱さや失敗にもかからず、私達が主の御名を呼び求める時、主は私達を助け導いくださいます。主は恵みと慈愛に満ちた方です。神は愛です。ですから、
1)私達の弱さにもかかわらず、神は私達を助け導いてくださいます
2)私達の弱さにもかかわらず、私達が主の御名を呼ぶ時に、私達を正しい者と呼んでくださいます
3)私達の弱さにもかかわらず、私達は神への希望を諦めてはなりません