礼拝音声
聖書箇所:イザヤ 35:1-10
説教題:強くあれ、恐れるな、あなたがたの神が来る
導入)
直前のイザヤ34章には、エドムに対する罰の宣言が記されています。それは、バビロンがユダ王国を攻撃した時、彼らがユダの人々の避難を邪魔したり殺したりしたからです。その預言は、エドムに苦しめられたユダの人々にとっては、神の正義が行われることであり、慰めでもありました。更に進んで、35章では、ユダ王国の回復の預言がされています。神が来られるというのです。この預言が私達にどのように関わって来るのかを見て行きましょう。
本論)
1節-2節 神の到来による栄光と喜びが述べられています。荒野、砂漠、荒地というのは、他国に虐げられて捕囚にされたユダの人々の絶望、失望を表しています。サフランが出て来ますが、盛んに花が咲くことが、ユダの人々が経験する喜びを象徴しています。神が来られるからです。続く地名は、神が下さる繁栄を表しています。レバノンの栄光というのは、美しく立派な杉の木を指しています。カルメルにも豊かな森林が有り、シャロンは豊かな牧草地帯です。
3節-4節 二つの節は相互に補完し合っています。3節を祈りの姿勢だと説明する人たちがいます。祈る時には手を上げるのがユダヤ人の姿だからです。また、長く立って祈るにしても跪いて祈るにしても膝に力は要るでしょう。しかし、中心的な意味合いはそういう所には有りません。イザヤが伝えようとしたことは、4節で明確にされています。「強め」「強くあれ」と訳された語は同じ語です。実際にするべきことは、「信仰を強く持って神に信頼すること」です。「見よ、あなたがたの神を「という部分がそのことを明確にしています。
神様は敬虔な信仰を持っている者に真実を尽くしてくださるのです。ユダの人々の場合は、アグラハムやモーセを通して与えられた契約が有ります。その契約を守って神に忠実に生きるならば、神がその契約に則って、守り、恵をくださるのです。その神が来て、あなたがたを救われると確約しているのです。
5節-7節 ここでは将来期待されることが述べられています。「そのとき」というのは、救いの神が来られる時です。目の見えない者、耳の聞こえない者が癒されます。これらの肉体的な癒しは、イエス・キリストが最初に来られた時に成就しました。この盲目と聾唖の癒しの奇跡は、イエス・キリスト以外に行った者はいません。それが、メシアのしるしとしての奇跡でもあったからです。霊的な意味においては、私達の心と魂が開かれて、神の救いを理解するこが示されていると考えられます。パウロは完全なものが来た時には、私達ははっきり顔と顔を合わせるように神を見、すべてのことを理解するということを述べています。(1コリント13:10参照)
6節では、飛び跳ね、歌うという動作が救いの大いなる喜びとして示されています。その喜びの源は、流れる新鮮な水として表現されています。絶望していた心と魂を生かす神の水、恵が与えられるのです。ヨハネ4:13-14においては、それがイエスの救いの福音だとされています。また、ヨハネ 7:37-39においては、聖霊とその働きであることが示されています。
7節は、その神の水の働きが私達から取り除いてくれるものごとを表していると考えられます。焼けた地と訳された語は、蜃気楼とも訳せるものだということです。また、場合によっては、強い太陽に照らされた白い砂が、水たまりや湖のように見えることも有るそうです。オアシスを求めて旅する人たちが、蜃気楼や錯覚に騙されることが連想されます。カルト宗教が教える偽の福音に騙された経験をする人がいますが、イエスの福音は真実の福音であり、騙された失望間ではなく、救われた喜びをもたらすのです。また、ジャッカルが出て来ます。この動物は、キツネのような姿をしていますが、死体を食べ漁る動物と考えられ、死の象徴です。しかし、死の恐れも取り去られます。葦やパピルスは水辺に生息する植物です。それらの植物のように、神の恵みと養いの中に生きることができるということです。
8節-10節 大路が出て来ます。盛り土をして整備した幹線道路のことです。通りやすいために逆にバビロンが攻めて来る時の進路にもなりました。しかし、神の到来の後は、神の民にとって安全な道となります。それは、神の民の心に有る礼拝の心と言って良いでしょう。それは、敬虔な礼拝者のもので、そこには恐れも疑いも無いのです。「愚か者」という表現は、詩編53編1節-3節を想起させます。神を否定して断絶している罪の中にいる人には大路は有りません。獅子や猛獣は死や不安の象徴です。もうそれも有りません。9節と10節に「贖われた者」という表現が出て来ます。身代金を払ってもらった者、買い戻してもらった者です。私達はイエス・キリストの十字架の血で贖われた者たちです。その結果、永遠の命をいただいているのです。悲しみと嘆きが逃げ去るという表現は、黙示録7:17、21:4と重なります。
まとめ)
4節には、強くあれという勧めと共に、神が来て救われることが宣言されています。神の到来については、三つの到来を考えることができると思います。イエスの最初の到来、イエスが個人的に私達の主となられた到来、イエスの再臨の時の到来です。それぞれに、35章で示された恵みと解放が見出されます。イザヤ35章が述べている、神が約束された霊的な生ける水の喜びをいただくために注意すべき三つのことを確認します。
1)イエス・キリストを自分の贖い主として受け入れること
9節と10節に贖われた者が神に近づくことができることが書かれていました。贖われた者だけが神との関係が回復し、神の国に入れていただけるのです。再臨を恐れることなく、希望と喜びを持って待つことができるのです。
2)神を信頼すること
詩編42編で、筆者は「神を待ち望め」と自分の心に語り掛けています。同様に、3節、4節の言葉や他の聖書の言葉で自分を鼓舞することができます。神は私達が神に信頼し、強くなってもらいたいと望んでいるのです。神を信頼する決心をしてください。神は救いに来てくださるのです。
3)聖なる道を歩むこと
エルサレムと神殿がエズラやネヘミヤによって回復された時、巡礼者たちは喜びをもって大路を歩きました。同様な喜びを持って、私達は日曜礼拝に参加するのです。神を礼拝すること、教えを守ること、祈りの中で神と親しい交流を持つことです。日々の生活の中に、賛美の心持ち続けましょう。