礼拝音声
聖書箇所:マタイ24:45-51
説教題:忠実なしもべの在り方
導入)
イエスはエルサレム崩壊の時と世の終わりの時の予兆の説明をしてきましたが、今回は特に宗教的指導者としての弟子たちに焦点を当てて警告をしています。ここで語られた例え話では、主人はイエスのことでありしもべは弟子たちのことですが、二種類のしもべが対比されています。同時に、この例話の中にも私達に適用されるべき原則が含まれています。
本論)
45節 主人が留守をしもべに託して出かけます。ブドウ園のたとえ話の時のように、主人が遠い所に別の土地を持っていたり事業を持っていたりして、留守にすることがありました。その時には、一番重用しているしもべに留守にする家の管理を任せるのでした。当時の地中海沿岸の文化では、しもべや奴隷は主人の所有物と考えられると同時に、家族、世帯とも考えられていました。それで、管理を任されたしもべは、他のしもべに食物の配給をする責任が与えられたりしました。それが、食事時に食事をきちんと与えるという言葉の意味と考えられます。
管理を任されたしもべは、留守中の家がどのように管理されることが主人の願いなのか、他のしもべたちがどのように扱われることが主人の願いなのかを知っていなければなりません。それで、忠実な賢いしもべと言う表現がされているのです。そういうしもべはだれでしょうか、というイエスの問いは、そういう資質をあなたは持っているか尋ねる、弟子たちに対するチャレンジでもありました。
46節 そのようにしているというのは、主人の願い通りに家としもべを管理しているということです。このしもべは、自分で財産を作る必要はありません。単純に、主人の言いつけを忠実に守って主人の所有物を管理すれば良かったのです。しかし、そうすることで、良い評価がされるのです。
47節 ここで、イエスの言葉に注意しなければなりません。「まことに、あなたがたに告げます。」というのは、これから大事なことを言うからしっかり聞きなさいということです。その内容とは、主人の願いをわきまえ知っている忠実で賢いしもべは特別な報酬をいただけるということです。おそらく神の国においてより大きな権限や役割が与えらえるということではないかと考えられます。全財産をまかせるということの具体的な内容はわかりませんが、神の国の栄光に満ちた富の管理をするということになるのかもしれません。創世記では、ヤコブの息子であるヨセフがエジプトに売られた後、ポティファルという人物の信頼を得て、家の全ての管理を任された話が出て来ます。後に彼は全エジプトの管理を任される大臣になりました。そのイメージをはるかに超えた報酬が待っているのです。
イエスの弟子のような特別な立場でなければそんな報酬を得られないではないかとうらやむ必要はありません。私達のためにもイエスは味方になってくださり、共に天国の相続人にしてくださったのです。イエスに対する信仰によって永遠の命をいただいたのです。そのことを喜び、私達も忠実にイエスの御心に従っていくのです。
悪いしもべの間違った態度
48節からは、悪いしもべについての話に変わります。そのしもべの間違った態度が4っつ程示されていると思います。
48節 1)主人はいつでも帰ってくることができることに注意を払っていなかった。
主人の家やしもべの全ての管理は主人の権威のもとに有ります。彼はそういう事実を気に留めていませんでした。主人はいつでも自由に自分の家に帰って来る権限が有ります。
49節 2)自分に委ねられた仕事を無視していた。
彼のつとめは仲間のしもべたちに適切な時に食事、もしくは配給を与えることでした。かわりに彼は仲間のしもべたちを暴力的に取り扱いました。適切な時に食事や配給も与えることもしなかったかもしれません。
3)酒飲みたちを招き入れて主人の財産を浪費した。
彼らが楽しんだ食物もぶどう酒も主人の財産の一部でした。仲間のしもべには与えずに、自分勝手に主人の持ち物を消費していたことになります。
私達は、神の恵みと養いをいただいて生きています。命も神からの賜物でありギフトです。私達は賢く忠実に神からいただいたものを管理し神の栄光を現さなければなりません。
50節 4)主人の帰還への準備ができていなかった
先に述べたことと重複しますが、主人はいつでも自分の所有物件に戻って来る権限が有ります。主人が帰って来るのが、悪いしもべが仲間と大騒ぎをして食事をぶどう酒に酔っている最中であったらどうでしょうか。主人に大目玉をくらうことになるのは明らかです。この時とばかりに、彼に打ち叩かれた他のしもべたちが主人にその被害を訴えるかもしれません。その時には、悪いしもべが謝罪をして損害賠償を申し出ても手遅れなのです。
私達も、いつでも神の御心に忠実に生活をし、イエスの再臨への準備ができていなければなりません。
51節 悪いしもべは厳しく罰せられることが述べられています。原文では、ばらばらに切り裂かれるという意味を持つ表現が用いられています。カルデヤ、イスラエル、エジプト、ローマにおいては、そういう刑罰も存在したそうです。この節の流れから考えると、その後泣いて歯ぎしりするという表現が出て来ますから、実際に切り裂かれることではなく、厳しい罰が与えられるという熟語的表現と理解できます。
悪いしもべへの罰が、偽善者への報いと同じにすると述べられています。イエスはパリサイ人や律法学者を偽善者と呼びました。彼は神に仕え、民衆を導くことに熱心なふりをしていましたが、実際は自分の権威や社会的力を楽しみ、自分の利益に仕えることに熱心でした。偽善者と言う語には、演ずる者、ふりをする者という意味が有ります。パリサイ人たちが受けた罰は、紀元70年のエルサレム崩壊の時に殺されることだったと言えます。
罰のくだる時に、かれらは泣いて歯ぎしりをすると述べられています。これも熟語的表現です。人間の激しい苦悩や怒りを表しています。イエスの弟子たちに当てはめて考えると、神の国に入っても報酬が少ないということになるかもしれません。あるいは、イスカリオテのユダのように、滅びに定められることをしめしているかもしれません。
まとめ)
イエスの弟子や宗教的指導者への警告は読み取れたと思います。わたしたちが一般的なクリスチャンとして適用するべき原則を考えてみます。
1)いつでもイエスの再臨に備えられていること
イエスの再臨への最も大事な備えは、イエスを救い主として信じる信仰を持っていることです。(ヨハネ3:16, 5:24参照)そして、主よ来てくださいと、期待を持って待つことができる心構えです。イエスの再臨は、私達の救いの完成の時なのですから、喜びと期待が有るのは当然です。
2)神の言葉で養われ建て上げられていること
主人の言いつけには、仲間のしもべに食事、配給を与えることが主に述べられていました。霊的に考える時、それは聖書の言葉で養われることをさしています。私達は、適切な時に霊的にも養われなければなりません。その適切な時間は、毎週の礼拝であり、日々の聖書通読です。
3)子供やしもべのように神の前にへりくだっていること
このたとえ話では直接的には示されていませんが、悪いしもべが思いあがって仲間を打ち叩く態度の反対は、へりくだることでしょう。それだけではなく、イエスは弟子たちに子供のようにへりくだるべきこと、偉くなりたければしもべのように仕えるべきことを繰り返し教えてきました。(マタイ18:1-4、20:24-28参照)