礼拝音声

聖書箇所:マタイ 24:29-44
説教題:目を覚まし、用心していなさい

導入)
  イエスは神殿が崩壊することに関する予兆についての説明をされました。実際に数十年後に神殿は破壊されてしまいました。29節からは、世の終わりに向けた内容へ発展していきます。先の27節、28節では、イエスの再臨は世界中で認識されることが述べられました。しかし、私達はまだ再臨を目撃していません。本日の箇所を通して現代に生きるクリスチャンである私達が何を読み取るべきかを考えてみましょう。

本論)
29節 イエスは天体の現象について語られました。そのような出来事は、旧約聖書では神の裁きの象徴です。(イザヤ 13:9-11参照)弟子たちはその意味合いが含まれていることを感じ取ったことでしょう。
30節 人の子のしるしが何であるかは示されていません。天使のラッパの音や栄光の雲を指しているかもしれません。しかし、イエスの来臨は「あらゆる種族」に見られるとされています。人々が悲しむのは、それから裁きの時になることがわかるからでしょう。
31節 こイザヤ 27:13のイメージが用いられています。選びの民というのは、イザヤ書では捕囚のユダヤ人を指します。その人たちがエルサレムに集められるという預言です。しかし、イエスの述べられた内容は、もっと幅広く世界中の人たちが対象ですから、クリスチャンたちと考えることができます。その人たちが神の国に集められるということです。(1テサロニケ 4:16-17、5:9も参照)主に集められる選びの民にとっては、それは悲しみの時ではなく、希望と喜びの時となるのです。
32節—35節 この箇所には二つのポイントが有ると言えます。一つ目は、エルサレムの崩壊に向けて弟子たちが準備をしなければならなかったように、私達も世の終わりに向けて準備しなければならないということです。二つ目は、イエスは必ずまた来られるということです。
  いちじくの例話が用いられています。弟子たちは経験上その例えの雰囲気を実感できたでしょう。パレスチナのいちじくは、冬に葉が落ちます。再び葉が芽吹くと、人々は夏が近いと感じます。夏なれば、その枝には実が生るのです。それと同様に、イエスがこれまで語られた予兆に気付いたなら、エルサレムの崩壊やイエスの来臨が間近だと悟のです。33節で戸口まで近づいていると表現されているものは、人の子ではなく、出来事のことと考えることもでき、そちらの方が文脈に合っていると思われます。
34節 ここでイエスは「この時代」に目を向けます。イエスの言葉を聞いた弟子たちが残命中の時代ということになります。
35節 ここでイエスは、ご自身が予告されたことは必ず起きると宣言されています。この言葉を聞く時、私達は予告された出来事が起きるということだけに心を留めてはなりません。イエスの来臨とその先に有ることを思う時、ここでイエスは弟子たちに神の救いの御計画の完成は必ず成就すると宣言された部分に目を留めることが大事です。
36節 この部分は、弟子たち及びクリスチャンへの警告となっています。
先ず、弟子たちにはエルサレム崩壊の時がいつであるかわからないということが告げられています。現代のクリスチャンにとっては、イエスの来臨がいつであるかわからないと言う警告です。「子も知りません」というのは、イエスもその時を知らないということになります。実際には三位一体の第二位格のイエスがその時がわからないというのは理屈に合いません。それで、この部分はイエスの役割に関して述べられていると理解するのが良いのではないかと思います。イエスは神と人との仲介者として来られ、滅ぼすためではなく救うために来られたので、この時点で弟子たちに具体的な到来の日時などを告げるのはイエスのお働きの中には入っていないということです。
37節 三つの例えによる警告が述べられています。それぞれの例に示されている警告の内容は次の三点です。
1)私達はいつイエスが来られるか知らない。
2)イエスの来臨の時には二種類の人間がいる。
3)私達は用心し、目をさましていなければならない。

ノアの例(37節—39節)
創世記5章は、ノアが500歳になった時に、セム、ハム、ヤペテを生んだと述べています。三つ子だったかどうかはわかりませんが、大きな船を造るのはノアだけでは難しいと思われますので、子どもたちが大人になってからお告げが有ったと思います。雨と洪水はノアが600歳の時に起きたということです。造船にどれぐらい時間がかかったかわかりませんが、雨と洪水まで50年以上は待ったかも知れず、ノアもその時を知らなかったのでしょう。しかし、ノアは準備ができていました他の人々は滅びてしまいました
  ところで、38節には「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」という表現が有ります。しかし、私達がそうしてはならないということではありません。普段通りの生活をすることが問題なのではなく、準備ができているかどうかが問題なのです。イエスがいつ来られるかはわからないからです。

労働者の例(40節—42節)
イエスの来臨は男女の区別に関わらず、世界全体に影響が有ります。取られる人と残される人が出ることが述べられています。そして、42節では、目をさましていなさいと警告されています。イエスの来臨がいつになるかわからないからです。

泥棒の例(43節—44節)
通常泥棒がいつ来るかはわかりません。予告して盗みに入るどろぼうはいません。ですから、私達は鍵をかけ、アラームを設置したりして用心し、備えています用心した家は守られ、用心していなかった家はどろぼうに入られるのです。

まとめ)
私達はどのように目をさまし、用心していなければならないでしょうか。

1)予兆を見たならば目をさまし用心しなさい
  私達は戦争や地震のうわさは既に頻繁に聞くようになっています。それは始まりにしか過ぎないとイエスは言われましたが、気を付けていなければなりません。まして、天体に関わる現象が起きたならば、いよいよ気を引き締めてイエスの来臨に備えなければなりません。それは、信仰に堅く立つということです。つまり、イエスの来臨が近いことと、その時は私達の救いの完成、天国に招き入れられる時、という喜びと望みの時だという信仰をしっかり持つのです。

2)イエスの言葉は必ず実現すると信じて目をさまし用心しなさい
  35節にはキリストの宣言が有ります。ですから、例え私達が困難な時を過ごさなければならないようなことがあったとしても、そこには神の国に集められるお約束の成就が含まれることを信じて希望を持つのです。恵みと栄光の時が間近になっていることを信じて励むのです。その時、私達の救いは完成するのです。
  
3)私達は神の喜びであるから目を覚まして用心しなさい
  エレミヤ1:11-12には、神とエレミヤの対話が記録されています。神に何を見ているかと尋ねられて、アーモンドの枝を見ていると答えると、神は、よく見たと言います。それは賞賛、承認の言葉です。続く内容は、神がご自身の預言を成就させるために見張っているからだというのです。アーモンドの枝は神の奇跡の力で一夜にして花を咲かせたアロンのアーモンドの杖を連想させます。神の救いの力と言えるでしょう。エレミヤが神と一緒に神のみ言葉の成就を見つめていたということになります。そのことのゆえに、エレミヤは神に賞賛されたのです。
  私達は、イエスの預言の言葉を信じ、この世の終わりのイエスの来臨の栄光と希望の光景と予定を、神と一緒に見つめているクリスチャンです。その信仰に堅く立っていることが、神の賞賛に値するのです。私達がイエスの言葉を信じて信頼していることを、神は喜んでいてくださいます。(ゼパニヤ 3:17参照)