礼拝音声

聖書朗読:マタイ24:15-28
説教題:死体のある所には、はげたかが集まります

導入)
  直前の段落では、イエスが弟子たちに神殿の崩壊の前にどのような前兆があるかを説明していました。今回の朗読箇所では、人々に降りかかる困難を避けるための実践的な指示を与えています。私達は、この中からも私達に与えられている霊的な原則を読み取ることが必要です。

本論)
15節—16節 神殿崩壊のもう一つの大事な前兆はダニエルが預言した内容です。(ダニエル9:27等参照)「荒らす憎むべき者」が神殿に立つということです。このことは、紀元前167年にアンティオコズ・エピファネスがエルサレムの神殿でゼウスのために豚をささげた時に成就しました。ですから、イエスの言葉を聞いた時、弟子たちはそのショックを感じることができたはずです。使徒行伝では、パウロがギリシャ人を神殿の建物に招き入れたと誤解されて、殺されそうになっているぐらいです。しかし、イエスはそのようなことがまた起きると預言されたのです。異邦人が神殿に入ってそれを汚すようなことをするのです。歴史的には、期限70年にローマの将軍のタイタスが、皇帝の肖像が織り込まれた旗を掲げて神殿の中まで入ったと言われています。
  このような前兆が現実となった時には、エルサレムの人々は即座に山に逃げなさいというのがイエスの指示でした。エルサレムの東側には山が連なっていて、盗賊やゲリラが隠れやすい地形でした。ですから、ユダヤ人が山に逃げ込めれば、外国の軍隊に襲われにくいのです。弟子たちの時代のクリスチャンは、イエスの言葉を信頼して、山に逃げる信仰が必要でした。
17節—18節 このような場面では、エルサレムが敵に取り囲まれて人々が殺されるようになるので、エルサレムの城壁の中にいる人たちは大急ぎでエルサレムから逃げ出さなければなりません。その緊急性がここでは説明されています。屋上はちょっとした物を保管したり、人が休んだりするために用いられました。そこから地上に降りる階段がついていたのですが、とにかく降りたら家に入らずに逃げて行きなさいというのです。また、畑にいる人たちは、作業をするために上着を着ていないのですが、上着を取りに帰る暇はないからとにかく直ぐ逃げなさいという指示になっています。
19節—20節 この難しい状況で障害となる事柄が述べられています。身重な女性と乳飲み子を抱えた女性は早く走ることができません。事が急では、他の家族を頼ることができない場合ば有ります。そんな状態で逃げても、途中で追いつかれて殺されてしまうかもしれません。冬の問題は何かというと、パレスチナの気候帯では、冬の雨がたくさん降ることです。すると、ヨルダン川とその支流が増水して渡ることができなくなるのです。すると、山の方に行くことができなくなります。歴史的な記録においても、そのような状況で敵に追いつかれて殺されたというものがあります。安息日については、律法の規定が障害になる場合がありました。安息日には移動できる距離が決まっており、だいたい1.6 km まででした。律法は正確な距離を規定しておらず、細かい距離の規定は人間が定めたものでした。緊急事態においては命を守るためにもっと長い距離を移動しても良かったのですが、人々はできるだけ律法を守ろうとしたのです。
  さて、この箇所で大事なことは、イエスが「祈りなさい」とお命じになったことです。神の裁きの場面においても、厳しい困難にぶつかることのないように神に信頼して祈ることが私達には求められているのです。私達は、ヤベツの祈りのような祈りを、繰り返し祈ることができますし、そう祈って良いのです。
21節—22節 祈るべき理由が続けて述べられていると考えられます。予告されている困難が、未だかつてない厳しいものであるからです。しかし、私達は神の恵みを見出すことができます。神に選ばれた者とは、ここでは選ばれたユダヤ人を指します。私達に当てはめて考える時は、クリスチャンと理解しても良いでしょう。そういう人たちのために、神はその困難の続く期間を短くしてくださるというのです。そのようにイエスご自身が宣言してくださってはいますが、私達も忍耐して救われるように祈ることが大事だと考えられます。
23節—26節 ここでは偽キリストについての警告が再度述べられています。ユダヤ人はメシア、キリストの到来を待ち望んでいました。ですから、困難な時になるとメシアの出現を切望したのです。ですから、イエスを信じないユダヤ人がメシアを待ち望むのは当然なことでした。しかし、イエスの昇天の後は、携挙や再臨の時までキリストが地上に現れることはないのです。
  偽キリストは、人々が彼を信じるように様々な演出をします。先ず、奇跡の業を行うということです。過去の現れた偽キリストの中には、ヨシュアの時代にあったように、ヨルダン川を分けることができると言ったり、あるいはそうして見せたというような話が有ります。荒野にいるというのは、モーセやエリヤを連想させる演出です。部屋にいるというのは、奥まった部屋に人知れず隠遁生活を送る仙人のようなイメージでしょうか。神秘的で知的な雰囲気を演出する意図が有ると考えられます。
27節—28節 偽キリストに騙されないためには、本当のキリストの次の到来の様子がどんなものかを知っていることが重要です。イエスは2つの例えを出します。一つ目は稲妻です。そのひらめきのようにしてイエスは来るというのです。つまり、荒野や部屋に探しに行かなくても、万人に認識できる有様で来るということです。説教題にも取り上げた「死体のある所には、はげたかが集まります」という表現も同様です。もしはげたかが何羽も上空を旋回していたら、その下に動物の死体が有ることがわかります。あるいは、野原ではげたかが地面を覆っていたならば、その下にははげたかの食物になっている死体が有ることがわかります。はげたかの例話は、私達の死や裁きを連想するものではなく、何が起きているか明らかだという意味で読むものです。イエスが再び来られる時は、こっそり来るのではなく、誰にでも容易に認識できる有様で来られるのです。

イエスのこの部分の教えは二重構造になっています。一つ目は、弟子たちが近い将来経験するかもしれない出来事について予告と警告をしているということです。二つ目は、世の終わりの時に起きることへの言及が含まれているということです。一つ目の出来事は、私達にとっては歴史的な過去の出来事です。ですから、私達は二つ目の内容に気を付けなければなりません。また、次のイエスの来臨については、携挙と再臨を区別していなければなりません。イエスは先ずクリスチャンを天に迎え入れるために空中に現れます。続いてユダヤ人の困難の時期等が訪れ、その後に再臨が来ます。どちらも世界の人々に明らかに示されるのです。

まとめ)
  では、今回の朗読全体を通して、今日のクリスチャンである私達が心に留めなければならない原則を確認してみましょう。

1)神の恵みと守りを求めて継続的に祈りなさい
  20節で、イエスは困難な時に大きな障害となるものごとから逃れられるように祈るように命じています。ヤベツが繰り返し、隣人に聞こえるように祈ったかもしれないその祈りの姿勢に倣って、私達も、厳しい困難がふりかかることのないように祈るのです。

2)偽キリストや偽の教義に騙されてはいけません
  ナザレのイエスだけがキリストであり救い主です。そして、定められた時までこの世に現れることはありません。使徒信条で告白するように、イエスは現在父なる神の右に座して、私達のために執り成しの業をしていてくださっています。聖書の啓示は完全で、新しい啓示や教義は必要ありません。

3)キリストの来臨は全世界に認識されるものです
  稲妻とはげたかの例話のように、キリストの来臨は誰にでもわかる有様で起こります。ですから、私達はキリストの来臨に気付かなかったらどうしようなどと恐れる必要はありません。決して見逃すことはないからです。私達がこの地上に生きている間にそれが起こるならば、確実にそれを認識することができるのです。