礼拝音声は有りません

聖書箇所:マタイ24:1-14
説教題:惑わす、慌てず、耐え忍べ

導入)
  イエスはこう公生涯の最後の段階に入っていました。ロバの子に乗ってエルサレムに入り、自分が旧約に預言されたメシアであることを示しました。次の日には神殿の境内で律法学者やパリサイ人たちと会話をし、また群衆に語り掛けました。23:38 では神殿の崩壊を予告しています。その場面では「あなたがたの家」という表現を用いています。それは人々が荘厳な神殿を誇りに思い、律法学者やパリサイ人たちが神殿を管理したりして権威を振るっていたからでした。彼らは神殿と礼拝の中心である神には心が向いていませんでした。イエスはここで神殿を離れ、二度と戻ってくることはありませんでした。
  本日の朗読箇所では、イエスが弟子たちに語り掛けています。どんなことを語られたのかを確認してみましょう。

本論)
1節—2節 弟子たちは神殿を見慣れており、その素晴らしさに感嘆していたようです。彼らがイエスに神殿の建物を指し示したのは、「この偉大な建物が崩れ去るというのですか?」という質問の意味が有ったのではないかと思われます。それに対してイエスは、「まことに、あなたがたに告げます」という強調の表現でこの神殿が徹底的に破壊されることを予告されました。
 史実においては、ローマの将軍のタイタスが神殿を焼いた後に、埋まっている礎石まで掘り起こさせたという記録が残っています。イエスの予告は現実になったのです。
3節 イエスの言葉が衝撃的であったからでしょうか、彼らはすぐにイエスに質問をすることはありませんでした。イエスのはベタニヤに向けて帰るために、谷を下り、次にオリーブ山に登り、そこで休憩を取ったのではないかと思われます。そこで、弟子たちがイエスの元に来て、先程の神殿の崩壊に関わる質問をします。マルコによる福音書では、その弟子たちは、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネであったと記録されています。彼らの質問は、何時そのようなことが起きるのか、その前兆、しるしは何であるかということでした。
  イエスの回答を確認する前に、弟子たちの質問の意図を知る必要が有ると思います。「あなたの来られる時」という表現の「来られる」という語は、存在と言う意味があり、皇帝や王が来る時に用いる語でした。弟子たちはイエスが王として来る日、この地上で王座に着くことを期待していたと考えられます。また、「世の終わり」と言っていますが、その後には完成、新しい時代の到来という意味が有ります。弟子たちはイエスがこの地上で治世を始めることを期待していたと理解することができます。イエスはそのような部分については触れないで、大まかに三つの前兆、しるしと、それに付随する戒めを与えています。

三つの前兆、しるしと戒め
1.偽キリストの到来(4節—5節) 多くのメシアを名乗る人物が現れることが前兆だということです。そして、それに対する戒めは、「惑わされてはいけない、騙されてはいけない」というものでした。ユダヤ人の歴史家であるヨセファスも何人かの偽メシアについて記録を残しています。歴史的に重要なのは、西暦132年にバル・コクバの反乱を起こしたシメオンという人物でしょう。多くのユダヤ人が彼に加担しましたが、最後にはローマ軍に打ち破られ、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りが禁止されてしまいました。この時、クリスチャンはシメオンを支持しませんでした。
戦争のうわさ(6節—9節) 6節と7節に戦争への言及が有ります。更に7節では様々な場所で飢饉や地震も起こることが加えられています。ニュースを見れば、近年様々な場所で戦争、飢饉、地震の報道が有りますから、このような前兆が有ると聞くと、不安になる人もいるかもしれません。しかし、イエスのここでの戒めは、「慌てないようにしなさい」というものなのです。慌てると訳された語は、大声で叫ぶ、金切り声を上げる、恐れるという意味が有ります。怖がってはならないということです。その理由となることが、6節と8節に示されています。それは、そのような前兆は物事の始まりに過ぎないということです。もっと違ったことがその後に来るということではないでしょうか。どう考えたら、私達は慌てず恐れないでいることができるのでしょうか。それは、すべての事は神の御手の中にあり、神が管理、制御しているということです。更に8節の「産みの苦しみの初めなのです」という表現が示していることが有ります。実際のお産の時には、陣痛と分娩が終われば、新しい命の誕生を喜び祝う時が来るのです。それと同様に、神にある喜びの時が来る、神の国が実現するという希望が有るということです。そのことを思い、信じて慌てず、恐れないでいることができるのです。
迫害と背教(9節—13節) イエスの戒めは直接的には弟子たちに与えたものです。実際に十二弟子、使徒は、後から加わったマッテヤを含めて皆殉教しています。ヨハネは殉教していないとされていますが、殉教したのだという話もないわけではありません。コンスタンチン帝が316年にキリスト教を公認するまでの間、クリスチャンは迫害されました。クリスチャンが皇帝崇拝をしないので、反逆者だとか無神論者だとか非難され、殉教することがありました。その中で、ある人達は信仰を捨て、また、仲間だったクリスチャンを裏切るようなことも起きました。11節では偽預言者の出現が予告されていますが、ペテロやヨハネが書簡で警告しているように、実際にそのような人物や偽教師が現れました。多くの人の愛が冷たくなると予告されました。多くということは全てではないのです。キリスト教においては愛は神につながる性質で大事なものですが、それが教会の中でさえ冷たいものになることがあるという警告も含まれていたのかもしれません。
  そのような状況において弟子たちに与えられた戒めは、最後まで耐え忍んで救われなさいというものでした。直接的には、これを聞いた弟子たちが歴史的な事件を通して耐え忍んだということですが、現代に生きる私達もその心構えが必要です。

終わりの日 述べられた前兆の後、御国の福音が全世界に宣べ伝えられると終わりの日が来るということです。全世界と言う言葉で弟子たちが考えたのは、地中海世界のことです。現在のトルコからスペインまでぐらいの範囲と考えられていました。ローマ10:18で、パウロは福音は世界の果てまで届いたと述べています。このことから私達は次のように考えることができると思います。私達が考える全世界にも当然神の国の福音は宣べ伝えられなければなりません。まだ福音が届いていない種族なり地方が五千ほどあると聞いたことがあります。もう一つは、弟子たちが考えた全世界の基準を当てはめれば、イエスの再臨はいつあってもおかしくないということです。しかし、イエスを信じる私達にとっては、迫害を含む前兆であれ、イエスの再臨であれ、それは神の国の希望につながるのです。その希望をもって、もう一度イエスの三つの戒めを心に留めましょう。

まとめ)
1)誰も惑わされないように気を付ける
  私達には別のメシアは必要ありません。また、別の福音も必要ではありません。現在でも異端は次々と出て来ます。再臨のキリストを自称する人物が現在も世界には40人近く存在すると聞いたことが有ります。気を付けて騙されてはいけません。それは、私達の教会の中にも入り込もうとするからです。
2)慌てないように気を付ける
  神様が世界を管理、制御しておられます。そのことを信じるのです。そして、私達にはイエス・キリストによって永遠の命が約束されています。私達には望みが有り、恐れる必要が無いのです。
3)最後まで耐え忍ぶ
  使徒たちも同様の戒めを残しています。
36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。 (へブル10章)
その耐え忍ぶ裏付けになっているのが救いの希望と喜びです。
5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに表されるように用意されている救いをいただくのです。
6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、
7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。 (1ペテロ1章)