礼拝音声

聖書箇所:ヤコブ 5:7-12
説教題:耐え忍びなさい

導入)
  直前で、ヤコブはクリスチャンを迫害するユダヤ人を念頭に置いた警告を与えているようです。彼らには神の裁きがくだるということが、迫害を受けるクリスチャンにとっては希望の要素になります。その迫害を受けることによって、裁きの日には神からの報酬を得ることが、慰めにもなるわけです。
  その前提を元にして、ヤコブは迫害されているクリスチャンの耐え忍ぶ心得を述べています。

本論)
7節 こういうわけというのは、クリスチャンを迫害するユダヤ人には神の裁きが待っていることを指します。苦しみが報われる日が来ると言う希望が有るのだからということになります。そのことを前提にして、ヤコブはクリスチャンたちが耐え忍ぶように勧めています。そして、三つの耐え忍ぶ姿の模範を示しています。

農夫の忍耐(7節—9節) 
  農夫は耕し、肥しを入れ、種を蒔き、雑草を抜き、努力を重ねます。しかし、良い収穫は天候に左右されます。農夫には管理する力が及びません。秋の雨と春の雨が出て来ます。作物によって植える時期や収穫の時期は異なりますが、この場合は麦などが考えられています。秋の雨が降って土が柔らかくなると、種を蒔きます。春の雨が降って実りが充実すると刈り取りになります。この二つの雨が降らないと、良い収穫が望めないのです。農夫は神が折に適ってお目を降らせてくださると信じ、信頼するしかありません。神がイスラエルの民と交わした契約を信頼することが必要なのです。なかなか雨が降らない時も、信仰と忍耐をもって待つのです。(契約については申命記28:1-6等を参照、信仰の忍耐についてはへブル10:36等を参照)
  8節の心を強くしなさいという表現は、顔をしっかり目標にむける(毅然とした態度を取る)、堅固にする、安定させる、確信を持つ、というような意味外が含まれます。神様の裁きの時の希望に土台してそう考えることに決心するのです。
  9節に更なる条件が付け加えられています。互いにつぶやき合ってはいけないということです。忍耐するためには、つぶやかないことが求められるのです。つぶやくと訳された語の語感は、深く溜息をつく、というものです。迫害でこんな目に遭った、あんな目に遭った。残念だ、がっかりだ。そのような否定的な体験や思いを互いに話し合うことは、更に同信の仲間を失望させることにつながります。堪え性が無いと、往々にして否定的で悪い言葉が口をついて出て来るのです。そのような態度が、主の再臨の時には裁かれ悪い事だった判断されるのです。反対に、私たちは信仰をもって肯定的な言葉を分かち合っていかなければなりません。(2テサロニケ2:16-17参照)

預言者の忍耐(10節)
  旧約の預言者は大変な苦難を経ました。エレミヤは、ユダ王国が外国の勢力に打ち負かされることなどを預言したために、幽閉されたり、水の枯れた井戸に投げ込まれたりしました。(エレミヤ38章等参照)また、エレミヤ26章では、ウリヤという預言者が、エレミヤと同様な預言をしたために、エホヤキム王に殺されています。彼らは、人々が気に入らない神の言葉を伝えたために苦しめられたり殺されたりしたのです。
  真の預言者は、自分の意思でなるものではありません。神の召命を受けなければ預言者になることはできないのです。ですから、預言者たちは、自分が各人に神に預言者の使命を与えられ、神の言葉を託されたのだと知っていました。そのようにして、神から直接言葉をいただいたということが、彼らの確信の源でした。その確信が有るからこそ、彼らは迫害の中で耐え忍ぶことができました。主の御名によって、というのは、神の権威によってということです。そして、預言者たちは、神の権威に従順し、自分を明け渡して耐え忍んだのです。
  私たちは預言者ではありませんが、神が私たちをキリストの御体なる教会に、また、神の国に召し入れてくださり、キリストの証人として立ててくださったことを確信しています。また、聖書を神の言葉と確信しています。もし私たちが迫害を経験するようなことがあっても、この確信に立って耐え忍ぶのです。

ヨブの忍耐(11節)
  ヨブは何故自分が苦しまなければならないのかがわからなくで神に不平を言いました。しかし、彼は決して神を否定したり拒絶したりすることはありませんでした。そのような信頼が信仰の忍耐には必要です。
  ヤコブがヨブの例を挙げたのは、その忍耐だけでなく、その後の報酬に焦点が有るからだと考えられます。ヨブ記の記述を確認すると、ヨブは後に失ったのと同じ人数の息子と娘が与えられます。また、家畜については、その数が全て二倍になっていることがわかります。二倍の祝福が有ったこのです。ヤコブは、それを主が慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方であることの証明だったとしています。それは、私たちにとっても希望となるのです。私たちも終わりの日に神の祝福の希望を持って生きるのです。

12節 ヤコブはこの部分の締めくくりとして誓ってはならないという警告を与えます。何よりもまず、と言って注意を引いていますが、これまでの耐え忍ぶことにあまり関係がないように思えます。これは、忍耐を難しくするユダヤ人特有のプライドの問題についての警告と理解できそうです。
  プライドが高いために誓うということが、ユダヤ人の生活においては頻繁に起こり、その態度が教会では問題となっていたようです。イエスもマタイ5:34-37において、誓ってはならないと戒めています。ヤコブが語った内容と同じことが語られているのです。
  彼らは、自分の主張することが確かである、正しいということを示そうとして誓うということがあったようです。その誓うと言う言葉の意味を調べてみると、確約するという意味と一緒に、脅かすという意味も有ることが判ります。旧約聖書には、「~でなければ神が幾重に私を罰っせられるように」という表現で誓う場面が出て来ます。1列王記19:2においては、悪徳王妃イゼベルが、神々(おそらくフェニキアの偶像)の名にかけて、必ずエリヤを殺すと脅かす時に同様な誓いの表現をしています。何にしても、人間的なプライドから神を引き合いに出して誓うのはクリスチャンのするべきことではありません。ましてや脅かすためにそのような表現をしてはいけません。
  「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさいという戒めは、言い換えれば真実を語りなさい、正直でありなさい、ということになります。そうでなければ、誓いの言葉は結果的には嘘と変わらないものとなってしまいます。

まとめ)
  耐え忍ぶことを中心に、ヤコブは三つのことを示していると思われます。
1)苦難の中にあって神の裁きに希望を置きなさい
  同義の繰り返し表現でヤコブが強調していることは、裁きの主イエスが来られる日が近いということです。「主の来られるのが近いからです。」(8節)「さばきの主が戸口のところに立っておられます。」(9節)その時に、クリスチャンの神への忠実さ、誠実さが報われるからです。そのことに希望を置くのです。また、イエスはインマヌエルの主です。共におられる神です。そのことも併せて希望を持って耐え忍ぶのです。

2)耐え忍びなさい
  中心的なメッセージです。その具体的な思考は三つの忍耐の例に示されています。
1.神の約束と養いに信頼すること。クリスチャンには山上の垂訓の約束が更に加えられています。
2.神を信じることに心に決めること。心を強くしなさいという命令がこれに当たります。
3.神の言葉である聖書と、私たちが神から信仰に召し入れられたことを確信すること。
4.神の裁きの時に、私たちは慈愛とあわれみに富む神から報酬をいただくことを心に留めること。

3)語る言葉に気を付けなさい
1.つぶやかない、深く溜息をつかない
 そのような言葉は、信仰が足りないことを表します。また、その言葉が同信のクリスチャンを落胆させるようなことにつながる場合が有り、耐え忍ぶことの障害になります。
2.誓わないこと
 神が私たちを義としてくださいます。プライドから自分が正しいことを殊更主張する必要はありません。何かにかけて誓うことでそれを示そうとするなら、神以外のものを頼る偶像礼拝となる部分があります。また、誰かを脅すために近いの表現を使うようなことがあってはなりません。

これらのことを心に留めて、現代に生きる私たちも、耐え忍んで生きるのです。