礼拝音声

聖書箇所:ヤコブ5:1-6
説教題:その叫び声は主の耳に届いている

導入)
  直前で、ヤコブは神を信頼せず誇り高ぶっている商売人のユダヤ人クリスチャンに警告を出しました。同様なタイプの人たちへの警告更に5章へと続いていきます。彼の警告の調子はかなり厳しくて、彼らに下される破滅の予告のようになっています。それで、学者によっては、これは信者でないユダヤ人に向けての警告と考える人たちがいます。しかし、これはクリスチャンに向けて書かれた手紙の一部ですから、私たちも注意して読み取らなければなりません。

本論)
1節 ヤ前の4:13 でしたように、コブは聞きなさいという表現でこの部分を始めます。しかし、彼らに臨む悲惨な状態が大変なものであることは、「泣き叫びなさい」という表現からうかがえます。耐え難い悲しみを大声を上げて表現するという意味が有ります。
2節 この箇所は、金持ちへの呼びかけであることがよく表れています。腐る富というのは、倉に蓄えられた農作物のイメージです。倉に蓄える程の作物が採れてそれを保存する小屋や倉が立てられるのは金持ちだけでした。それが、戦争や迫害で見捨てられて腐ってしまうのです。また、ここでいう着物というのは、金持ちが着る綺麗で豪華な外套のイメージです。クローゼットに幾つも豪華な着物を持っていたとしても、袖を通さずに放置されてしまう事態になれば、いずれ虫に食われてだめになってしまいます。
3節 金や銀の貴金属が出て来ます。これらは実際には錆びないで、くすんだり変色したりします。さびは比喩的表現になります。そのさびが、彼らを責める証言になるというのは、金銀を貧しい人に施すために使わずにため込んでいたために、有効うに利用されず、さびがついたと言う理解になるでしょう。ユダヤ人の中でもパリサイ人やサドカイ人にはそのような人たちがいました。実際に神の罰として、エルサレム崩壊のような災難が彼らに降りかかる時に、火で燃やされるような人が出たかもしれん。そのようなことを心に留めなければならないのに、彼らは気にせずに自分のためだけに財宝をたくわえたと責められています。
  終わりの日という表現を聖書で見つけた時には、注意しておかなければならないことが有ります。原典のギリシャ語で、それが単数形か複数形かでは示している内容が変わってきます。今回は複数形が使われています。終わりの日々ということになり、特定の日ではなく期間が有るということになります。イエス・キリストの救いの業が成就して教会が誕生して以降の日々という理解になります。現在のクリスチャンである私たちも、終わりの日々に生きているということになります。福音の精神に従って富を管理するべき期間に入っているのです。
 4節 金持ちたちの金銀、富がどのようにたくわえられたかの一端がここに示されています。彼らは労働者の賃金を払い惜しんで自分のためにたくわえました。当時の賃金と言えば、日給であることが普通で、人々はその日払いの賃金で生活していました。ですから、仕事が終わった時に賃金をもらえないと、翌日の食事の準備が難しくなる家庭も多かったのです。神は貧しい人たちへの心配りをしてくださる方です。レビ記19:13にも、日給はきちんとその日のうちに払うようにという命令が記されています。彼らはユダヤ人であり、モーセの律法に通じている人たちであるはずなのに、その規定を守っていなかったのです。アベルの血が神に向かって正義を求めて叫んだように、未払い賃金が神に向かって不正の告発の声を上げているという指摘になっています。そして、それは確実に全知全能の神の耳に届いているのです。
5節 神の御心に従わないで、自己中心な生き方をして富をたくわえたユダヤ人に対して神の罰がくだることも知らず、もしくは気にせずに生きている彼らの有様を、ヤコブは皮肉を込めて表現しています。殺される日にあたって、太らせました、と言う表現は、ユダヤ人にはわかりやすかったことでしょう。彼らは動物の犠牲を神にささげる習慣を理解していたからです。ささげる犠牲の動物に選ばれたものには、より良い餌が与えられて太らされるのです。別の面から言えば、良いものを食べて太ってくるということは、殺される日が近づいているということなのです。
6節 金持ちが抵抗のできない罪のない人たちを殺したという指摘になっています。これは、金持ちが貧しい人たちにお金を貸すところから出て来た話だと思われます。債権者は債務者を投獄する権利が有りました。殺しましたというのは、実際に殺すというよりは、無理な要求や酷い扱いが有ったということではないかと思われます。先程の確認したように、当時は日給が当たり前でしたから、投獄されようものなら、生活を支える手段が家族に無くなり、大変なことになったと思われます。

まとめ)
  ヤコブの警告は、旧約聖書に出て来るイスラエルを含む各国への裁きと破滅の預言のような強い響きが有ると思います。そのような警告は、二通りの作用が有ると思います。一つは神の民の敵に対する警告として、もう一つは神の民への警告として。
  先ず、神の民、クリスチャンの敵に対する警告としての読んだ時、どのように私たちは受け止めることができるでしょうか。
1)神は契約の民に真実で誠実な方である
  神はご自分の民を守ってくださることを約束されています。信仰の故に私たちに敵対する人たちは神の敵でもあります。神は何が起きているかをご存知で、敵に報いてくださいます。神にある希望の故に、私たちは困難を耐えることができます。
  一方で、私たちが神との約束を破るならば、何等かの罰が私たちに与えられることも心に留めなければなりません。(それは永遠の罰ではありません。)

  神の警告は私たちへの奨励、励ましになる部分も有ります。
2)神の国と神の義を求めよ
  ヤコブが書いた警告は、山上の垂訓を思い起こさせたと考えられます。同様の内容が、マタイ6:19-21, 24に出て来ます。そして、その締めくくりの33節に、神の国と神の義を第一に求めるように命じています。そうすると、神に信頼しなさいということと、後にイエスが教えられた、神を愛し、互いに愛し合いなさい等の戒めに従うことが含まれて来ることになります。そのことは、これまでにヤコブが警告してきたことにつながっていきます。仮に自分が日々の必要を越えて富んだ者、金持ちの部類に入ると考えられるならば、それを神の栄光のために用い、困っている人たちを助けることを考えなければなりません。また、自分の富の用い方が、他人を困難に追いやるようなことになってはいけません。