礼拝音声
聖書箇所:ヤコブ 2:14-26
説教題:木は実によって知られる
導入)
ヤコブの手紙を読む時には、それがユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれていることに留意しなければなりません。ヤコブはここで「私の兄弟たち」と呼びかけて、これまでのえこひいきから全般的な行動の規範について話題を変えていきます。
ところで、今日の朗読箇所の記述のために、マルチン・ルターは、ヤコブの手紙を藁の書と呼びました。それは、2:14を、業による救いと誤解したからです。実際にヤコブが伝えようとしたことを確認してみましょう。
本論)
14節 救うと訳された語は、勿論私たちの魂の救いにも用いられることばですが、その意味はもっと広いのです。安全に、健全に保つ、良くする、癒す等の意味が有ります。ヤコブは、そんな有様で信仰を健全に保つことができるのかと聞いたことになるでしょう。
15節―17節 ヤコブはここで一つの例えを述べます。誰かが「安心して行きなさい。」と言うのですが、これはユダヤ式の別れの挨拶、シャロームのことだと考えられます。それは神の守りを願う祈りでもありますが、困窮している仲間に何の援助もせずに口先だけの挨拶をしても、その言葉が何の役に立つかというのです。8節では、聖書に従ってイエスの教えにも含まれる最高の律法を守るなら、その行いは立派だとヤコブは書きました。それを受けて、そんな行動はその最高の律法に適っているのかと言っているように思われます。因みに、この例は、ヤコブが実際に使徒行伝11章に出て来るイスラエル地方の飢饉の時に見聞きした様子に基づいていると考える人たちがいます。
18節―20節 ヤコブはここで更にもう一人の仮想の人物を登場させます。先程の誰かをAさんとし、このもう一人をBさんとしましょう。ここでは、BさんがAさんに挑戦的な質問をしているという雰囲気になります。「Aさん、あなたは信仰を持っているというが、行動が伴わないね。私は信仰を持っているし、それに基づいた行動を示すことができますよ。」と言っていることになります。
19節には、突然のように、「あなたは神はおひとりだと信じています。」という表現が出て来ます。信仰深いユダヤ人であれば、毎日申命記6:4の言葉を暗唱するのですが、その最初の内容が、われらの神主は唯一であるというものです。あなたは信仰が有るというなら、毎日それを暗唱しているではずだということです。そのことを「りっぱなことです。」と言っているのは、皮肉です。それは、続く内容が、悪霊どももそう信じてると続からです。むしろ、悪霊どもはその事実に身震いしているというのですから、あなたより真剣にこのことを受け止めているのではありませんかという挑戦になっているようです。神についての知識があり、それを信じていることと、実際に心からその信じるところに基づいて行動しているかどうかは別問題ということです。
20節では、その事実に基づいて、Bさんは、Aさんを厳しく叱りつけているようです。「ああ愚かな人よ。」などと呼びかけられた経験のある方は、殆どいないのではないでしょうか。あなたが真面目に信仰を持っているというのならば、最高の律法に従った行動が伴わない信仰が空しいということを、真剣に悟ろうとする心構えは有るのですか、と迫っているのです。
ここでヤコブは行いが信仰には必須であるなどとは述べていません。行いは信仰が有ることの証拠であり、信仰はその人の行いによって示されるということを述べているのです。
21節-23節 ヤコブは、ここでBさんにユダヤ人の始祖であり、信仰の父であり、尊敬されているアブラハムの例を挙げさせます。アブラハムは当然神を真いる信仰を持っていましたが、神の命令を実行に移して愛する一人息子のイサクを祭壇にささげた行いによって義と認められました。
22節の解説が大事です。信仰は行いによって全うされ、と述べられています。全うする、と訳された語には、「最終段階に達する、目標にたどり着く」という意味合いが有ります。アブラハムが内側に持っていた信仰が、従順による行いによって最終段階に至った、明らかになった、証明されたということです。ですから、23節の引用部分では、行いへの言及が無く、「その信仰が義とみなされた」と表現されているのです。
24節―26節 BさんからAさんへの言葉は終わりました。ヤコブはここで焦点を読者に戻します。ここから「あなた」という二人称が複数形に戻るのです。ヤコブは異邦人であるラハブの例を挙げます。彼女が信仰に基づいて行動したことは、へブル11:31 にも示されています。彼女はユダヤ人がカナンに入ることが神の御心だと信じ、ヨシュアの遣わしたスパイを匿いました。神を愛し、互いに愛し合うという最高の律法を守ったのです。彼女の名前は、イエスの系図にも出て来るのです。生きているためには、体と魂が一緒に存在していなければならないように、信仰と、それに基づいた行動が一緒になければならないのです。
まとめ)
木は実によって知られます。実が生らないなら、それは木が未成熟であるか、役に立たない株か、すでに枯れているかです。イエスが葉ばかりで実の無いイチジクの木を呪った話が福音書にはできています。宗教心に篤いと主張しながら、メシアであるイエスを受け入れず、肉的な行動しかしないパリサイ人たちの行く末を象徴したものでした。私たちの信仰も同様です。12節でヤコブは、「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。」と述べています。その原則は、今回の箇所にも共鳴しています。信仰者として、私たちは何を心に留めるべきでしょうか。
1)自分の信仰を行動によって示すこと
最高の律法、イエスの福音と教えに従うべきです。私たちはそうするべき義理が有ります。具体的な行動としては、毎週の日曜礼拝を優先すること、献金で礼拝の運営を支えること、感謝、願い、執り成しの祈りを捧げることが含まれます。
2)信仰の従順をすること
正しい教義や神の性質を理解していることだけでは不十分です。悪霊でさえそれらのことは知っています。神への愛に基づいて、従順することが大事です。
3)従順の行動が信仰を全うすること
私たちが従順して神の律法に基づいて行動する時、私たちの信仰が最高の状態に至り、目標に到達するのです。