合同礼拝の音声は有りません
聖書箇所:詩編121編1節-8節
説教題:今よりとこしえまで
導入)
英語で詩編121編を検索すると、聖句と一緒にヨーロッパや北米の美しい山の画像が添えられていることがあります。2節は天地の造り主としての神への言及があるので、神の造られた山々を通して神を賛美する心を読み取る人がいるかもしれません。しかし、そのような理解のみでは、読み誤っていることになります。この詩編は、全部で15編ある都上りの歌の一つであることに注意しなければなりません。巡礼者たちは、三大例祭に参加するためにエルサレムに向かって進んで行く時に歌ったと言われます。三大例祭とは、過ぎ越しの祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、仮庵の祭りです。学者たちは、巡礼中の特定の場所で、特定の都上りの歌を歌ったと考えています。この詩編121編の詩的表現の背後にある意味を確認してみましょう。
本論)
1節 さて、この詩編に出てくる山というのは、何でしょうか。それは、エルサレムにある神殿のを指しているのです。エルサレムの町は、複数の山もしくは台地の上に建てられているのです。ですから、巡礼者が目的地である神殿を見ると、山に向かって目を上げることになるのです。そのことを理解して初めて、2節の問いかけの意味がはっきりするのです。「私の助はどこから来るのか。」
2節 この節は作者の神への信仰お示しています。唯一の創造者なる神について触れることは大事な点です。周囲の国々も山の上に神殿、祭壇、像などを置くことが普通でした。そこで、作者は、自分が唯一の真の神に仕えていることを明らかにしているのです。
3節 巡礼者が都上りの歌を歌う所からエルサレム神殿まではまだかなりの距離を歩かなければならなかったかもしれません。石や砂が多い道では、滑って転ぶことや怪我をすることが有り得ました。夜で有ればなおさらです。しかし、神はご自身を礼拝する人々を、まどろむこともなく、眠ることもなく、必ず守ってくださるのです。
4節 ここでは、3節の内容を繰り返して、神の守りを強調しています。一方で、神の守りをイスラエルの国にまで広げて表現しています。
5節 ここで作者は読者に焦点を変えます。ここから作者は二人称単数を用いて語っています。神の守りは、神に信頼するあなたに、個人に与えられるのです。「陰」という表現は、聖書では守りを意味するものとして用いられることがあります。「右の手」というのは、戦いなどで道具持ちや護衛が立つ位置です。右利きであれば、剣を右手に持つので、同時に盾を持つことができないからです。
6節 中近東においては、昼間の太陽の熱は巡礼者の命を脅かすかもしれません。また、昼夜の寒暖差が大きく、夜は凍えるように寒くなります。月は狂気に関連付けられることもあります。すると、神は、肉体的な困難も精神的な困難からも守ってくださるという理解ができます。
7節―8節 作者は繰り返し、神がより頼む者を守ってくださると保証しています。そして、それは巡礼の時ばかりではなく、一生涯守ってくださるのです。
「行くにも帰るにも」という表現は、一生を表すヘブル語的表現です。それは、始めと終わりのイメージで、戦いに行く兵士が城壁の有る町の門から出陣し、帰還するイメージでもあります。そして、作者は更に「今からとこしえまでも」と畳みかけるのです。この世の歩みにおいても、神の国である天国にまで守ってくださるのです。
まとめ)
2023年が終わり2024年が始まります。引き続き私たちの神は、私たちを守ってくださるのです。神は私たちを今よりとこしえまで守ってくださるのです。詩編121編から、私たちはどのような原則を読み取ることができるでしょうか。
1)私たちは日々礼拝の心もって生きなければなりません
ダニエルは日に三度神に感謝して祈っていた記録が有ります。巡礼者は年に三度エルサレムを目指しただけでなく、日々礼拝の思いを持っていたことでしょう。
2)私たちは神の守りを信頼しなければなりません
詩編の作者は繰り返し神の守りがあることを述べています。神はわたしたちをあらゆる悪いことから守られます。その問題が肉体的な問題であってお精神的な問題であってもです。また、私たちには霊的な攻撃もあるかもしれません。私たちは、そう感じる時、イエスのみ名によって退けることができます。また、外国からの攻撃からの守りを祈ることもできるでしょう。
3)私たちは神の永遠の救いを信頼しなければなりません
神は私たちを始めから終わりまで守ってくださいます。私たちには永遠の霊魂が有ります。私たちは永遠の存在です。今よりとこしえまでと作者は述べています。神の守り、解放、救いは永遠なのです。
この信頼と希望を持って、2024年も続けて神の御前に歩んでいきましょう。