礼拝音声

聖書箇所:マタイ23:1-12
説教題:低くされ高められた者

導入)
  直前の22章では、パリサイ人、サドカイ人、律法学者たちから質問をぶつけられています。イエスは正しい答えを示すだけではなく、彼らが聖書の正しい理解をしていないことを示されました。イエスはまだ神殿の境内にいたと思われます。ここから家は周囲にいた人たちと弟子たちを教え始めます。

本論)
1節-4節 イエスはパリサイ人たちの言うことは聞きなさいというのです。理由は、彼らがモーセの座を占めているからというのです。それは、彼らがモーセの律法の解釈、解説をする役割を持っていたということです。パリサイ派の律法学者は、自分達がユダヤ人に対してモーセの後継者の立場にあると考えていました。イエスのここでのポイントは、神のみ言葉である旧約聖書の教えには従いなさいということです。
  一方で、イエスはパリサイ人たちの行いを真似てはいけないと言われました。彼らは、長老の伝統などの付け足しの律法も加えて民をがんじがらめにしていたのに、自分達は律法の精神を守らず、イエスに「やもめの家を食いつぶしている」などと責められていたりします。そんな彼らの行いを真似するべきでないことは明らかです。
5節-7節 イエスはここでパリサイ人たちの性質を示す例をあげます。
  先ず、彼らは人に見せるために行動しているということです。経札というのは、革製の小物入れ、パウチのようなもので、そこに聖書の言葉が書かれた羊皮紙などを入れておくものです。祈りや礼拝のために用いられるものなので、額や左腕に紐で結び付けるものです。彼らはそれが目立って人の目につくように、その幅を広くしていたのです。衣のふさは、民数記15章に出て来る規定で、ユダヤ字の男性は衣の四隅に房を付けることが求められていました。パリサイ人たちは、それを必要以上に長くして、目立つようにしていたのです。
  パリサイ人たちが好きな宴会の上座とは、宴会の主催者の隣の席です。また、会堂の上席というのは、礼拝堂の律法を朗読するための壇ぐらいの高さに作られていて、一番目立ち、偉い人が座る席と思われていました。
  広場というのは、多くの人が集まってビジネスなどをする場所ですから、耳目を集めるのには良い場所です。そして、そこで誰かがラビ、私の先生、と呼んで挨拶をすれば、それが自慢できることだと考えました。
8節-10節 ここでイエスは特に弟子たちに目を向けているように思います。弟子たちは自分達の中で誰が一番偉いかと何度も議論をしていました。一連の先生、教師、父、師はほぼ同じ意味で使われており、神の言葉を解き明かす教師のことです。ここで問題なのは、先生と呼ばれること自体ではありません。問題なのは、パリサイ人たちが先生と呼ばれることを自慢するような態度でした。もし牧師が、先生と呼ばれないと機嫌が悪くなるとか、信徒が自分の教会の牧師が先生と呼ばれないとおもしろくないということがあれば、パリサイ人たちと同じことになってしまいます。イエスに従う者は、人からの栄誉を求めるような者であってはいけないのです。私たちは、神の国と神の義を先ず求め、神からの栄誉を求める生き方をしなければなりません。私たちは、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の導きと教えを尊ぶ者たちでなければならないのです。
11節-12節 ここでイエスは弟子たちへの教えを締めくくります。その内容は、マタイ20:26-28と同様な内容になっています。しかし、ここでは、その時のように直接的にイエスの模範については触れませんでした。それでも、12節の内容はイエスの模範を十分に示していると考えることができます。「自分を低くする者は高くされます。」という部分です。御子なる神の地位を離れて人となられたこと、パリサイ人たちや異邦人に虐げられて十字架に着けられたこと、死んで葬られ、黄泉に下られたことが低くされた内容です。極限までイエスは低くされたのです。そして、高くされ、天の王座に着かれました。私たちには到底できないことですが、それでも、イエスの謙卑に私たちは倣っていかなければなりません。
  
まとめ)
  本日の聖書箇所がイエスに倣って低くされ高められる者となるために私たちに示していることを次のようにまとめておきます。

1)神の言葉に従え
  イエスは、パリサイ人や律法学者が正しく聖書の解釈を教えている部分については言うことを聞くように命じられました。私たちは、聖書をよく読み、その内容をよく理解しようとしなければなりません。そして、その教えを、聖霊の導きによって守って行くのです。

2)人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めよ
  私たちの実践は、パリサイ人たちがしていたような、人の栄誉を求めるものであってはなりません。自らを低くして、神と教会に仕え、主にある兄弟姉妹に仕えるのです。また、神を信頼し、神の加護と養いを信じて生きることも、神を尊び栄誉を帰する生き方です。

3)常に神の偉大な救いの恵みを覚えよ
  イエスが極限まで低くなられたのはなぜでしょうか。それは、私たち信じる者を救うためです。三位一体の神が、どれだけの犠牲を払ったかを考えるのです。それは、一方的な恵みであって、私たちの功績ではありません。そのイエスは、天に昇られて、王座についておられます。そこで、私たちのために執り成しをしてくださり、最後の審判の時には、私たちを無罪として受け入れてくださるのです。