礼拝音声
聖書箇所:マタイ 8:18-27
説教題:王に従う者の資質
導入)
直前の17節までの内容は、イエスが病を癒し、悪霊を追い出すという奇跡を行って、ご自身が約束のメシアであることを証明されるというものでした。マタイは、これらのことが、イザヤ53:4の成就であるとしています。
ここからは、マタイは、イエスに従う者の資質に注目した記述をしていると考えられます。イエスに従う者への神の御心を確認してみましょう。
本論)
18節 イエスと一行はカペナウムにいたことが5節からわかります。群衆をご覧になってイエスは、向こう岸に行くことを決められます。向こう側というのは、ガダラ人の地方であることが28節に記されています。前日の働きによってまだ疲れが残っていて、しばらく群衆から離れていたいと思われたからかもしれません。
19節 一行が出かける前に、一人の律法学者がイエスの所に来ました。通常福音書に出て来る律法学者は、イエスに敵対する者であることが多いのですが、この人は、イエスについて行きたいと申し出ました。どこにでもと言っていますから、この場面では、湖の反対側にもついて行きたいということになります。
20節 そこでイエスは、弟子たちの伝道旅行の雰囲気を伝えます。枕するところが無いというのは、決まった宿がなく、人々のもてなし、もっと言えば、神の導きと守りに頼って生活しなければならないということです。イエスは、その律法学者に、そんな代償を支払ってイエスについて行く心の準備ができているのかと尋ねたことになります。律法学者がどう応答したかは記録されていません。
21節 また、他の地方に移動しなければならないことを知って、イエスの弟子の一人がカペナウムに留まる許可を求めました。父を葬りたいということでした。普通ユダヤ人は既に父親が亡くなっていれば、出歩くことをしませんので、この時点ではその父親は存命であったことがわかります。すると、この弟子は、父親が弱っていて、間も無く亡くなるかもしれないので、それまで一緒に過ごして葬式をしてからイエスの所に戻ってきたいと考えたことになります。
22節 イエスの返事は予想とは違っていました。「わたしについて来なさい。」と言われました。ユダヤ人は、子どもが両親の葬りをきちんとすることを尊びましたから、このご命令には驚いたに違いありません。イエスのご命令の理由は、続く説明と状況から判断できます。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい言っています。死人というのは、ここでは、イエスを自分の王として受け入れない霊的に死んだ者たちということになります。では、この場面で霊的に生きている者、イエスを王として受け入れた弟子たちがするべきことはなんだったのでしょうか。それは、イエスについて行って、共に福音宣教をすることでした。現在の私たちがそうしなければならないということよりも、その時、イエスの弟子の優先順位はそういうものだったということと考えられます。しかし、そのような場面でなくても、私たちも神の国の福音に関わることが世事よりもゆうせんされるべき時が有るかもしれません。この弟子の応答の記録も有りません。
23、24節 対話を終えたイエスと一行は、船に乗り込みました。大暴風が起きたのは、昼間のことであると理解できる状況です。普通ですと、湖の大暴風は、周囲の山頂の空気が冷えて湖にくだって来る夕暮れ時に起こります。それは常識でしたので、わざわざそんな時間に船で湖に出ることはしなかったのです。そういわけで、学者の中には、これはガダラ人の地方で福音が語られるのを妨げようとしたサタンの働きと考える者もいます。または、弟子たちに教訓を与えるための機会としてイエスが起こしたものではないかと考える者たちもいます。いずれであるかは私たちにはわかりません。しかし、これが弟子たちに教訓を与える機会になったことには違いありません。そして、この大暴風の中で、イエスはぐっすり眠っておられました。
25節-27節 助けを求めた弟子たちに対するイエスの答えや、驚いた人々の言葉が、王に従う者の資質を示していると考えることができそうです。ちなみに、27節の「人々」というのは、大勢の弟子たちを乗せる船を出した船頭たちだろうと考えられます。イエスの弟子たちであれば、「この方はどういう方なのだろうか」という問いの答えは知っていなければならないからです。イエスはメシアであり、神の御子であり、また創造主でもあるのです。しかし、その答えを知っているということと、それが信仰を伴って心の内に働くことは別のことです。ですから、イエスは「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言われました。
メシアであり創造主であるイエスが一緒に船に乗っていました。そして、その方は眠っておられたのです。その方が、「向こう岸に行こう。」という指示を出されたのですから、必ずそれは成就しなければならず、イエスが眠っている以上、船が危険にさらされるはずが無かったのです。イエスが風と波を叱られると、大なぎになりました。なぎは海上が滑らかな状態です。突然無風状態になっても、波の方は物理的に突然エネルギーが平均化するはずがないので、このこともイエスによる奇跡の業と考えなければなりません。
まとめ)
私達は、最初の福音宣教を委ねられた弟子たちとは立場や状況がが異なります。それでも、イエスを信じて従う信仰者として持っていなければならない資質が有ります。この聖書朗読から私たちの持つべき資質を確認してみましょう。
1)私たちの王であるイエスがどのような方かを明確に知ること
イエスは、神の御子、創造主、約束の救い主です。イエスは信じる者を罪と死から贖い出して救ってくださり、永遠の命を与えてくださる方です。ですから、私たちの主として命じられることを、私たちは信じ従わなければなりません。
2)私たちの王であるイエスの御力を確信し、信頼すること
聖書においては、多くの場合は、水は困難の象徴です。しかし、私たちは主の御体なる教会の中に、イエスと一緒にいるのです。私たちは確実にイエスが私たちのために定められたゴールに到達します。ですから、イエスを信頼し、恐れずに、心の平安を保って歩むのです。
3)神の国に属する事柄を優先すること
現在の私たちが両親を葬ることをせずに伝道に行くことが求められているわけではありません。それでも、イエスの良い証人になること、イエスの教えを守ること、聖書を読み、祈る続けること、日曜礼拝を守り、奉仕と献金をもって礼拝を維持することを優先する態度がなければなりません。