礼拝音声

聖書朗読:ルカ 5:33-39
説教題:なんともったいない

導入)
*直前のエピソードでは、イエス様に従うことになったマタイが、喜んで食事会を開きました。
*イエス様に従って義人となることを受け入れられないパリサイ人たちは、つぶやいて言いました。
*自分のプライドや方法で正しくなろうとする人は、他人に容赦がなく、人を傷つけるような表現になることが多いのです。
*イエス様を主として従って行こうという、悔い改めと決心をした人達の生き方の原則は、彼らには理解できませんでした。
*ですから、パリサイ人たちは、続けてイエス様を非難する言葉を投げかけて来ます。
*ルカがこの記録を通して私たちに伝えようとしていることを確認しましょう。

本論)
33節 パリサイ人たちは、イエス様の弟子たちを非難しているような表現をしますが、暗に、彼らの師匠であるイエス様の指導がなっていないという非難をしています。イエス様は教師の資格が無いという雰囲気になります。
*ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちがしていた断食はどんなものでしょう。
背景1 モーセの律法
*モーセの律法では、断食の規定は年に一回しかありませんでした。大祭司が全ての国民の罪の贖いのための生贄を捧げる日に、仕事を休み、断食しました。
背景2 伝統
*預言者はそのような規定を伝えたことはありませんでしたが、捕囚から帰還した後は、年に4回断食をするようになったそうです。(2回とも)
背景3 パリサイ人たちの規定
*イエス様の時代には、敬虔なユダヤ教徒や厳格なユダヤ教徒は、週に二回断食をしたそうです。伝統や言い伝えでは、モーセが山に登って神から律法を受け取った日だという理由で、月曜日と金曜日に断食したということです。(木曜日という説も有ります。)
→これが一般的に強制されるような感じになってきたようです。
 パリサイ人たちは、断食をしていることを誇り、自慢していました。
 また、いかにも断食していることが判るように振る舞って誇示していました。
*神の御子であるイエス様は、神がモーセに与えた律法には従っていましたが、人が定めた伝統や規定を採用することはしませんでした。
34節-35節 婚宴の例話
当時のユダヤの婚宴は、一週間続きました。
→この祝いの期間に関係者が断食をすることは禁じられていました。
 もし関係者が断食をすれば、大変な侮辱とみなされました。
*婚宴の例話は、マタイの設けた宴会とどうつながるのでしょうか
→イエス様:これから花嫁となる主の体なる教会との関係を結ぼうとしている花婿。
→弟子たち:花嫁である教会の一部であり、参列者でもある存在。
*この宴会は、喜びとお祝いの時であり、断食を持ち出す場面ではありませんでした。
*イエス様は、レビ・マタイの悔い改めと、宴会を、イエス様と教会の婚宴と同様なものとみなして祝福されたのです。
*35節では、イエス様は預言的な発言をします。
—1)定められた時に、花婿なるイエスは地上からいなくなる。
   イエス様は、十字架で死なれ、三日目に復活し、40日弟子たちに現れた後に天に昇られることが決まっていました。イエス様はご存知でした。
—2)イエス様が天に昇られると、弟子たちはいよいよ福音宣教に尽力することになり、その時には、神との深いつながりと助を得る必要のために断食して祈ることになりました。(例:使徒行伝13:2-3、パウロとバルナバの派遣の時)
☆それは、見栄を飾るためにするパリサイ人たちの断食とは全く違った、純粋な断食と祈りであることが示唆されています。
36節-39節 着物と革袋の例話
*ここからイエス様は、パリサイ人たちがしているのがどんなことかを、例えを使って話し始めます。
*着物の例話: お気に入りのジャケットを何年も着古して、肘の所に穴ががあいてしまいました。その時、最近買ったプラダのジャケットを思い出しました。柄、パターンが似ているから、あれから布を切り取って、古着の穴に継ぎ当てをしよう!そんなことを考える人がいますか?
→新しい着物を傷物にするのは愚かなことです。着られなくなります。
→新しい布は、色合いが異なり、古い布に馴染みません。また、洗濯をすると縮むことがあり、古い布がさらに傷むことが有ります。
☆これは大変愚かでもったいないことです。
*革袋の例話: 一般的には山羊の革で作ったもので、そこに水、ワインを入れて持ち運びました。
*新しいワイン: まだ発酵初期のものということになります。その後も発酵が進み、二酸化炭素が発生する段階です。
*古い革袋は、そういう段階の新しいワインを保存するのには適していません。古い革袋は、弾力性がなくなっており、長く使用してきたために薄くなったり弱くなったりしている部分がでてきます。うっかり二酸化炭素を逃がし忘れると、ガスが充満してついには革袋が張り裂けてしまうことがあるのです。
→新しいワインと古い革袋を組み合わせるのは愚かなことです。
→革袋が張り裂ければ、もう使えなくなります。
→ワインもこぼれてしまって、飲めなくなってしまいます。勿体ないことです。
☆パリサイ人たちがしていることは、これと同様に愚かで勿体ないことです。
*例話の意味:生活の知恵の話ではありません。新しい方法でもありません。
*新しいワイン:イエス様を信じることによって義とされ、神の国の民となることができるという救いの福音。イエス様の教えです。
*新しい革袋:イエス様を信じる信仰に基づいた態度と行動です。
→弟子たちは、イエス様に招かれて、神の国の福音を信じる新しい信仰、新しいワインを心に持っていました。
→その現れである革袋、表面に見える状態は、イエス様との交流を喜び、マタイの悔い改めを喜び、神が定めたのではない、人間の見栄をはるための断食をしないことでした。
☆もし弟子たちがパリサイ人たちの言うことを聞いて、彼らと同様な態度で断食をしたら、どういうことになるでしょうか?
*弟子たちがパリサイ人たちと同じ心構えで断食を始めるならば、彼らの霊的な状態は、古い着物を着ているのと同じです。イエス様に従うことは、ただのポーズになってしまい、福音の恵みの一部を切り取って古い着物に継ぎを当てただけのような状態になってしまいます。
→イエス様の福音の恵みが全く無駄になってしまいます。
→新しい着物は、そのまま全体を用いてこそ意味が有ります。福音も同様。
*弟子たちがパリサイ人たちと同じ心構えで断食を始めるならば、彼らの霊的な状態は、古い革袋に新しいワインを入れたようなものです。
→子なる神、イエス様の福音による義と、パリサイ人たちの見栄を飾った断食の義は、比較になりません。後者は無に等しいのです。
→イエス様による義の信仰を持っているはずの人間が、パリサイ人たちと同じ心の持ち方、考え方で断食をしたならば、その信仰は無意味です。(偶像礼拝です。)ですから、ワインは流れ出て、古い革袋と一緒にだめになってしまうというのです。
☆39節は、神の国の福音を受け入れないパリサイ人たちへの皮肉と考えられます。彼らは人間が考え出した厳しい規定や伝統という古いワインを几帳面に守っていること、それを人々に見せびらかして賞賛されている自分に満足して、イエス様の教えに耳を貸そうともしませんでした。彼らの多くは、最後まで福音の恵みを味わうことが有りませんでした。

まとめ)
*もしイエス様の例話が生活の知恵のことであれば、パリサイ人たちは、我々はそんな愚かなことをするものかと思ったかもしれません。
→しかし、霊的には、彼らの考えや行いは、同様に愚かなものでした。
☆聖書に出て来る愚かな考えや行いを読む時、私たちがするべきことは、自分の中にそのような部分がないかを反省することです。

1)神がお命じになっていない行動で義人、良い人になろうとしない
*神を愛し、互いに愛し合うこと、絶えず祈ること、礼拝を守り、献金と奉仕で教会を支えることは聖書に命じられています。
*しかし、見栄をはるために断食をする、聖書的でない基準で他のクリスチャンを断罪するなどのことは、単なる自己満足です。
*アナニヤとサッピラの事件。
*ガラテヤ6:14-16(朗読) 割礼の問題について ガラテヤ5:2、5-6(朗読)

2)神がいかに大きな犠牲を払ってくださったかを認識する
*インドの父親の話。汽車から三歳の息子を救って片足を失った。
*神様は、私たちを救うために、もっと大きなものを犠牲にされた。御子イエス
*神様が私たちに与えてくださった義の衣は、イエス様の十字架の贖いを通して与えられました。
*それを、割礼とか、何かの伝統を守っていることの誇りに置き換えるのは、あまりにももったいない、無限大にもったいないことです。

3)神の国の福音の基本原則を認識する
*マタイ18:3 自分の能力、努力では、神に義と認められることはないことをしっかり心に留めておくことです。
*イエス様の弟子たちも、繰り返しこの原則を教えこまれました。
*私たちはただ信仰によってのみ義とされ、救われ、神の業をする者と認められるのです。
*そんなにお気楽で良いのか。→では、あなたに何ができるのか。功なきわれら。
*私たちにイエス様以外に誇るものが生じる時、自慢する心が生じる時、あまりにももったいない状態になっていることを肝に銘じましょう。