礼拝音声

聖書箇所:マタイ 22:34-46
説教題:神は愛なり

導入)
  パリサイ人やサドカイ人達は繰り返しイエスを罠にかけようとして質問をしてきました。たかが人間が神の御子を罠にかけることなどできるはずがありません。今回の朗読箇所には、彼らの最後の試みが記録されています

本論)
34節 普段はパリサイ人とサドカイ人は良い関係にはありませんでした。しかし、イエスを罠にかけるという目的のために協力することにしたのです。(彼らが普段対立していることは使徒行伝23:6-7でよくわかります。)
35節‐36節 律法の中で(一番)大切な戒めがどれであるかというのは、人々の関心を集めていました。様々な意見が有ったようですが、結論が出ていなかったようです。ですから、パリサイ人やサドカイ人は、イエスがどんな回答をしても文句をつけることができると予想したのでしょう。
37節‐38節 イエスは直ぐに申命記6:5を引用して答えました。この戒めは、旧約聖書にあと7回記録されている大変重要な戒めです。言わんとするところは、私たちの全存在をかけて神を愛さなければならないということです。これが大切な第一の戒めであるというのは、その重要度が最も高いということです。実は、この戒めは、直前の申命記6:4とつながっていて、「聞け、イスラエルよ。」というユダヤ人が毎日告白する戒めと組み合わされています。ですから、これが第一の大切な戒めとするのは大変自然なことでした。
39節 イエスは更にレビ19:18を引用して第二の戒めを述べます。ユダヤ人の伝統においては、この二つの戒めを組み合わせて用いられることがよくありました。ですから、この第二の戒めを挙げることは自然なことでした。
40節 律法と預言者というのは、旧約聖書全体のことです。ここに詩編が加えられる場合も有りますが、同じことです。旧約聖書の原則がこの二つの戒めから派生していると言っても良いでしょう。
41節 これは、34節のパリサイ人がイエスに質問をした直後のことであることを示すための一文と考えられています。
42節 今度はイエスの方から質問をしました。メシア、キリストがダビデの子孫であるということは、ユダヤ人には共有されている知識でした。ですから、彼らは即座に答えることができました。(根拠については、詩編89:3-4、イザヤ11:1, 10を参照)旧約聖書の記述から、メシアはこの世の王という考えが定着していました。しかし、人々は、人々はメシア、キリストについてもっと知るべきことが有りました。そこで、イエスはもう一つの質問を加えました。
43節‐45節 43節の「御霊によって」という表現は、聖霊に導かれてダビデが書いた詩編を引用したからです。(詩編110:1)イエスの質問は、原文のニュアンスがわからないと理解が難しいものです。『主は私の主に言われた』という部分は、原文の表現では『ヤーウェは私のアドナイに言われた』という感じになっています。二つ目の主にアドナイが当てられていることに注目します。この語は主に神に対して用いられるものなのです。つまり、『父なる神は私の神に言われた』という意味になるのです。ダビデは聖霊の導きによって、メシアは神だと述べたことになります。イエスの質問の意図は、「メシア、キリストは、どうしたらダビデの子孫であり同時に神でありえるのか」ということだったのです。
  因みに、ユダヤ教の教師が聴衆に明らかに矛盾しているように思われる聖書の記述を理解しようとする時に、どちらも真理であるとし、いかに矛盾を解消するべきかを考えるように求めたということです。それは、現代のクリスチャンにも求められる姿勢です。
  私たちはこの質問への回答を知っています。その説明の一例は、ローマ1:2-4に有ります。メシア、イエス・キリストは、人の子であり、同時に神の御子であり、神なのです。キリストは人の代表として身代わりに死ななければならないので、人間として来なければなりませんでした。しかし、例え罪を持たない人間が一人いても、身代わりの法則から考えれば、その死は一人しか救うことはできません。信じる者が全て救われる程の身代わりとなると、神の他には存在しません。ですから、キリストは神でなければならないのです。神は、人類の救いのために、そのようなキリストを送ってくださったのです。私たちはここに神の愛を見るのです。
46節 パリサイ人たちは答えることができませんでした。イエスの質問が彼らの理解を超えたものであったからでしょう。仮に、彼らの中にイエスの質問の意味するところを理解した者がいたとしても、イエスの神性を認めることはしなかったことでしょう。彼らはそれ以降イエスに質問をすることを諦めたのでしょう。 
  
まとめ)
  今回の聖書箇所には、神が愛であることが読み取れます。どのようにマタイは神が愛であることをこの記録によって示しているでしょうか。神は愛なのです。ですから、

1)神は一番重要なものとして神を愛することを命じている(37節)
  神は愛をもって私たち人間を神の似姿に創造されました。それは、私たちが神との交流を持つ者となるためでした。それが人間と他の被造物との違いです。   
  私たちは、理性、感性、力をもって、すなわち、全存在をもって神を愛さなければなりません。そのことの中には、イエス・キリストの体なる教会を愛することも含まれています。私たちは日曜礼拝を毎週守り、仕え、礼拝の維持を支援しなければなりません。

2)神は私たちが互いに愛し合うことを命じている(39節)
  私たちは神の似姿に創造された者どうしです。神の似姿に創造された人を憎み、呪い、殺そうと思うようなことは罪です。しかし、パリサイ人たちは、イエスを殺そうと決めていました。
  クリスチャンは、互いに愛し合い、お互いに良くしようと努力するのです。イエスはヨハネ13:34で、新しい戒めとして互いに愛し合うことを弟子たちに命じています。私たちが教会を愛し、礼拝し、互いに仕え合う時、私たちは始めの二つの戒めを守っていることになります。

3)神は私たちにキリストを神として受け入れることを命じている(45節)
  この二日後、イエスは人の罪の代価を払うために十字架にかかって死なれました。私たちの代わりになるために、イエスは人間として来られました。同時に、多くの人の救いとなるために、イエスは神でなければなりませんでした。イエスが三日目によみがえられたのは、イエスが神であることを証明し、信じる者に与えられる永遠の命の保証するためでした。神からの最大の贈り物であるイエス・キリストの救いを私たちは受け取るのです。