礼拝音声

聖書箇所:詩編106編106編
説教題:主の慈しみはとこしえまで

導入)
  この詩編は、46節、47節の記述から判断すると、捕囚からの帰還が始まった後に書かれたものではないかち思われます。捕囚は神との契約に基づく罰であると考えられます。(申命記28:64参照)同時に、そのような中にあっても、悔い改める時にはその祈りに答えてくだることも神の約束と考えられます。(1列王記8:46-50参照)この詩編は、そのような背景に基づいたものと思われます。
  この詩編は先祖の罪の告白が大半を占めています。しかし、その焦点は、神への賛美と嘆願にあります。どのような霊的原則が述べられているのかを確認してみましょう。

本論)
賛美
  1節の賛美の言葉が最初に述べられています。同様な言葉は107編、118編、136編にも出て来ます。それだけ大事な原則です。2節は修辞疑問文です。誰もつぶさに神の偉大さを讃えることはできません。それでも記者は神をほめたたえようとするのです。そして、3節に、そのような心構えで生きようとする者、神の御心を求めて生きようとする者は、正義を常に行う人と述べられています。そのような人たちは幸いなのです。何故ならば、主はいつくしみ深いからです。
  次に記者がしていることは、嘆願の祈りです。4節と5節では、記者はイスラエル人国家と自分という個人を対比させています。神がイスラエルに目を留める時、私個人にも恵みを施してくださいということです。その目的は、神をほめたたえる喜びの叫びを上げる人々の中に、自分も入れてもらいたいということです。6節は、自分が先祖たちと同様に罪を犯したと告白しています。しかし、その焦点は、罪の告白よりも、神が先祖を憐れんで救い出してくださった歴史に基づいて、自分をも赦して救い出してくださいという部分に有ると考えられます。
  7節から46節までは、先祖たちがどのように神に対して罪を犯したかを告白しています。記者の意図は、あの時も、その時も、神は恵みを施してくださったでしょうと訴えることに有ると考えられます。大まかに八つの場面が取り上げられています。紅海を渡る前に、恐怖と不信仰の言葉を神にぶつけました。神の恵みは、エジプトの軍勢彼らを守って対岸に渡らせてくださり、神の力を示されたことでした。食べ物のことで神に不平を述べることが有りました。神の養いは不十分であり、肉を与えることができないと不平を述べて、不信仰で反抗的な態度を示しました。神の恵みは、罰として病で撃たれる人も出ましたが、うずらの肉を与えてくださいました。コラ、ダタン、アビラムが、モーセとアロンの権限を妬んで反抗し、神に従いませんでした。神は反逆する者たちを滅ぼされましたが、引き続き民を約束後に導く器であるモーセとアロンを維持されました。モーセがシナイ山に上って不在の時、人々は不信仰と不安にかられて金の仔牛の像を造り、偶像礼拝をしました。モーセがとりなしの祈りをして、民が滅ぼされなかったことが神の恵みと言えるでしょう。民は、約束の地にたどり着いた時、その地の人々の体大きいのを見て恐れ、不信仰な態度を取り、神の命令の通りに攻め上りませんでした。神の恵みは、頑なな世代を取り除き、子孫を約束の地に入れてくださることでした。彼らがモアブの地に近づいた時、パアルぺオルに捧げた
物を食べ、モアブ人との間に性的な不道徳が有りました。神は、そのような罪に加わった者たちを殺すように命じられましたが、ピネハスが神の御心を率先して行ったことで、その後の神罰を思い留められました。メリバで民が飲み水が無いと言って逆らった時、神は水を豊に与えてくださいました。モーセが軽率な言葉を発したために、約束の地に足を踏み入れることができなくなってしまいましたが、神の聖であることを示すことになりました。入植後、民は命令通りにカナン人を追い出さず、不従順でした。度々不信仰と偶像礼拝に陥りましたが、悔い改める時には、神が恵みを持って士師を起こし、良い王を与え、彼らを守られました。46節に示された神の恵みは、クロス王が民のエルサレム帰還を許可したことが含まれているように思われます。
  このように、神が民の不従順の歴史の中で、どのように恵み、慈しみを施してくださったかを述べて、記者はもう一度直接的な嘆願に戻ります。その目的は、始めの方で示されたのと同様に、慈しみ深い神を誇り、感謝を捧げることでした。詩編106編は、詩編の第四巻の最後の詩編です。締めくくりに相応しく、神をほめたたえる呼びかけで終わっています。同様な表現が、第一巻、大三巻の終わりにも用いられています。

  
まとめ)
  神の慈しみは深く、その恵みはとこしえまで続きます。そのことに基づいて、私たちは、どうのように応答するべきでしょうか。

1)神に感謝を捧げ続ける
  私たちは、イスラエルの民の歴史と同様に、繰り返し不信仰の罪を犯しているものです。しかし、神は慈しみ深く、神に目を留めて悔い改める者に恵みを施してくださいます。その慈しみに頼り、悔い改め続け、神に感謝を捧げ続けるのです。(哀歌3:22-23参照)

2) 神がいかにわたしたちに慈しみを示していくださっているかを告白する
   記者が述べた先祖たちの罪は、その後に続く神の恵みを思い起こし、同様の恵みを神に請い求めるためでした。神は、罰を与えられますが、同時に悔い改める者の必要を満たし、回復を与えてくださいます。モーセはキリストの予表と言われています。モーセが民のために執り成しをしたので、民は滅ぼされることがありませんでした。神は私たちに大いなる執り成し手、大祭司の働きをするイエス・キリストをくださいました。この慈しみ、恵を私たちは日々告白するのです。

3) 神に救いと恵みを求めて嘆願する
   記者は、この詩編の祈りを捧げた時、または書き留めた時、まだ完全な回復を経験していなかったかもしれません。私たちも、信仰の歩みにおいて、まだ困難を乗り越えていないかもしれません。それは、自分の罪や間違った考えの結果かもしれません。それでも、私たちは詩編の記者と同様に、神に目を向け、神に信頼して、勝利の喜びと感謝の声を上げられる時を期待して祈ることができますし、祈るようにするのです。