礼拝音声

聖書箇所:箴言3:1-12
説教題:心を尽くして主により頼め

導入)
  ソロモンによる箴言とされています。朗読箇所には、六つの勧めがなされています。神を敬う知恵から得られる幸いについて述べられています。順を追って確認してみましょう。

本論)
1‐2節 わが子という呼びかけは、私たちに対する呼びかけとして理解されます。また、その戒め、勧めは、聖書の言葉、神の言葉として聴くのです。
  忘れるなという命令は、単に記憶から漏れる様子ではなく、意識的に無視する姿勢を指すということです。逆に、意識して心に留める努力が必要です。
  その結果は、充足と平安が与えられ、長生きすることができということです。
3‐4節 ここで求められているのは、私たちが親切で、信頼のおける人間でなければならないということです。首に結ぶというのは、なくさないように、忘れないようにするということです。私たちが鍵をストラップで首にかけて仕事をしたりする時の雰囲気を想像してください。心の板に書き記すのは、石板に金属の筆で書くイメージです。書いた字は消えません。心に根付いて、親切で信頼のおける性質が、本人の性格になるようにということです。
  4節は、命令文として訳されていますが、結果の記述として理解される内容です。あなたが神と人に対して親切な心と信頼される生き方をすれば、神と人から好意と聡明を得ることになるというのです。私たちの模範であるイエスが、そのような方であったことがルカ2:52 等からうかがえます。
5‐6節 この部分が、今回の箇所の中心的勧め、命令と考えられます。先に示された、聖書の言葉を記憶しておくことや、親切で信頼のおける人物になることができていても、神に信頼していなければ、それは神の前には何の意味も有りません。
  神に拠り頼むその条件は、「心を尽くして」となっています。心とは、理論立てる、知性の部分を指しています。考え、思い出し、理論立てることを常に、意識的にしながら、「だから私は神に拠り頼むのだ」と告白、宣言する姿勢を持っていなければなりません。アスリートが意識的に記録の向上を目指して取り組むように、私たちも意識的に信仰の成長を目指して取り組むのだと言えます。
  その障害になるのが、自信過剰になって、神を忘れることです。だから、自分の悟りに頼るなと戒められているのです。ヨシュアたちは、エリコの攻略が成功した後、神を忘れ、神に伺いを立てず、次の作戦に失敗しました。(ヨシュア9:14参照)
  神に意識的に拠り頼む姿勢は、6節では主を認めるという表現になっています。神のごみ心を確認し、神の指示を仰ぐということです。今日の私達は、聖書を読むことを通してそうすることができます。意識的に、考え、神のみ心を求める時、わたしたちは神との親しい関係に入れられて行くのです。それが、岩の上に家を建てた賢い人の例話に通じる姿勢です。
  その結果は、わたしたちの道がまっすぐになるということです。神があなたの心から疑いや恐れを取り除いて、平安を与えてくださるということだと考えられます。ガリラヤ湖の嵐の中にも関わらず、船の中で眠っておられたイエスの、神への信頼と平安を模範とするのです。
7‐8節 別の表現で、神に信頼する姿勢を説いています。悪から離れよと命じています。離れるという語は、向きを変える、避けるという語感が有ります。自分を知恵のある者と思うなという戒めは、5節に通じるものが有ります。ここでは、神に信頼しないこと、より頼まないことは悪なのだ、罪なのだということを意識させています。
  神に拠り頼むことの結果は既に6節に示されています。そして、神の平安が与えられる生き方は、体をも健康にするのだと述べています。
9‐10節 中心となる命令は、「主をあがめよ」です。あがめると訳された語は、重きを置く、優先順位を与える、栄光を帰す、敬うという意味が有ります。それを、財産とすべての収穫の初物を捧げることによってしなさいというのです。初物と訳された語には、主だったもの、選りすぐりのもの、一番素晴らしいもの、という意味が有ります。神様に最高の捧げものをしなさいということです。
  ここでは、申命記14:22などに示されている、穀物、ぶどう酒、オリーブ油の十分の一を捧げる規定のことを指しています。今日の私達に当てはめると、収入、貨幣、お金ということになります。私達は、神様に養われているのですから、神様に感謝の心を表してあがめ、礼拝をするのです。
  ここで、理解しておかなければならないことが有ります。
1)神様は、霊ですから、食物を必要とされません。十分の一の捧げものの目的は、礼拝を維持し、祭司やレビ人を養い、困っている人を助けることなのです。
2)また、この規定は、旧約の規定であるということです。私達クリスチャンは、新約の聖徒ですから、神様とこの様な契約をしていません。私達は、「心に示されるままに」捧げるのが基本原則です。マラキ3:9 に基づいて、十分の一の献金をしないと呪われるということはないのです。
  一方で、私達クリスチャンに適用される原則も含まれています。このことも、この部分の主題である神に信頼するということに関わってきます。十分の一を捧げることは、神に信頼する信仰の現れです。与えてしまうのに、増し加えられるというこの記述は、私達の常識には反しています。そこで問われるのは信仰です。あなたは、自分の貯蓄、財力に信頼するのか、神に信頼するのかという挑戦です。
  この信仰の応答をする時に、クリスチャンが示すことは次の三つです。
1)養ってくださる神への感謝と信頼
2)神に最高のものを捧げようとする敬虔
3)礼拝を持続可能にするための支援
皆様の献金の取り組みが、収入の十分の一であろうとなかろうと、この三つの目的に適った態度を持っているかということを考える必要が有ります。皆さんが献金を捧げる時、このような態度でしていらっしゃるかどうかを時々考えてみてください。
  原則は生きていますから、神様からの応答、祝福を私達は信仰によって期待して良いのですが、同時に、主権は神に有ることを心に留めておく必要が有ります。神の祝福の応答を過度に一般的原則としてはいけません。神が、何等かの理由で、私達が期待するような祝福で応えてくださらない場合が有ることを受け入れなければなりません。そうでないならば、私達の献金は、神をたたえて栄誉を帰することではなく、単なる投資に堕してしまうのです。
11‐12節 この六番目の戒めは、これまでの戒めの締めくくりと考えられます。それらを守り続けなさいという指示と考えられます。それが、神が懲らしめ、叱責、しかるということの目的です。興味深いのは、これらの言葉に含まれる意味です。懲らしめと訳された語は、指示を与えるという意味での用例がもっとも多いものです。叱責と訳された語は、正す、理論立てるという意味が有ります。恐ろしく厳しい態度ではなく、教え諭し、説明する態度を見ることができます。聖書と聖霊に導かれて生きる関係は、そういうものだという認識が有ることも大事ではないでしょうか。
  
まとめ)
  六つの戒めを確認してきましたが、そこから三つの要素を取り出してまとめてみたいと思います。

1)意識的に継続的に神に信頼する
  そうする時、神は、私達に平安、健全さ、豊かさを与えてくださいます。私達の行動が、御霊の実に基づいて、習慣的に親切さや誠実さを実践するものになるようにすることも、その表れと言えるでしょう。私達の思考、理論立てる考えを神に対する信仰のうちに働かせましょう。

2)神をあがめ、礼拝を維持するために最高の捧げものをすることを目指す
  神は、私達に、主だったもの、選りすぐりのもの、一番素晴らしいものである、救い主イエス・キリストをくださいました。私達も最高のものを捧げる礼拝の思いをもって献金し、奉仕をするのです。どうぞ、神に対する信頼を、捧げものによって実践することを考えてください。

3)神の命令と挑戦は、神の愛から出ている
  神の戒めに従順する時に与えられる恵みのリストにもう一度目を留めてください。長寿、平安と豊かさ。神と人に愛されること。霊と肉体の健全さと力。神は私達を愛しておられ、私達のためにご用意くださった全てを、私達に受け取って欲しいと思っておられるのです。拠り頼み、従って行きましょう。