礼拝音声
聖書箇所:マタイ22:1-14
説教題:婚宴の例話
導入)
イエスは三つ目の例話を祭司長やパリサイ人たちに語ります。これまでの二つの例話との共通点と、発展的に加えられた部分を見ることができます。
本論)
2節 クリスチャンであれば、父なる神とみ子イエスを表していると理解できます。聞いている祭司長やパリサイ人たちにも、天国の宴会のイメージはよく伝わりました。ユダヤ人の伝統においても、天国の宴会の話が有るからです。
3節 ユダヤ人の習慣では、招待しておいた客にもう一度招待をしました。バプテスマのヨハネや、イエスの、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージが、二回目の招待の部分が重なるかもしれません。しかし、この例話では、招待されていた客は、頑固に宴会に出かけることを拒絶しました。
4節 悪い小作人の例話と同様に、王は再びしもべを遣わして、客が宴会に来るように伝えました。王が託した言葉には、王の心遣いと忍耐が表れています。肥えた牛を料理するには手間暇かかります。飼育する段階でも、特別に麦を食べさせたりしなければなりません。心を込めた料理が用意されたのです。
5節、6節 人々がまだ畑や商売に出かける時間ですので、宴会は、日中であったことがわかります。しかし、客は、自己中心で、自分の事業にしか目を向けていませんでした。パリサイ人たちが、自分の政治やら宗教の指導権にばかり目を向けて、神の招待をかえりみなかったことと重なります。王のしもべ、使者は、王自身を代表する存在ですから、彼らをないがしろにしたり、殺したりすれば、それは王への反逆、反乱と考えられました。バプテスマのヨハネは首をはねられ、イエスは十字架に着けられました。彼らは、父なる神を無視していました。
7節 王に対する反乱の意思が有るとみなされた人々には、軍が差し向けられ、彼らは滅ぼされてしました。
8節、9節 例話中の王は、招かれた者たちは宴会に相応しくなかったと言っています。それは、彼らが王の招待に応じなかったからです。父なる神の招待を受け入れる者たちこそ、天国の宴会に相応しい者たちなのです。
王として、また父親として、婚宴に客がいないなどということは有り得ません。再びしもべたちを遣わして、今度は、通りにいる人たちを誰でも招くようにと言いました。教会の歴史としては、これが、福音が異邦人にも伝えられるようになることを示していると考えられます。ユダヤ人の表現で、異邦人や下層の人たちは、通りの人とか、生垣の向こうの人というような表現が使われていたからです。
10節 ここでは、しもべたちは、イエスの福音を伝える使徒たちや伝道者たちと考えることができるでしょう。良い人も悪い人も招くということですが、それは、人間的な道徳的視点で表現されたと考えられます。これまでの例話の流れでは、悪い人は、取税人や遊女が念頭に有る表現と言えるでしょう。良い人は、それ以外の神を敬う人たちや道徳的な振る舞いをする人たちと思われます。王は、そのような区別を一切しないで招くようと言ったのです。
11節 王は、宴会の主催者として、会場を視察しに来ました。見にくるという動作を表す語には、検分をするというような意味が含まれます。そこで、婚姻の礼服を着ていない人が見咎められます。通りで誰彼構わず招待したのですから、礼服が無い人もいたでしょうけれど、それは問題ではありませんでした。礼服は、王が支給し、入り口で渡されるものなので、着ていないことは有り得なかったかのです。
12節 王の質問には、驚きの思いが含まれています。礼服を着ないで婚礼の宴会に出るのは、主人にも、婿にも、列席の客にも失礼なことでした。王の質問は、この人が、どの門を通って入って来たのかと尋ねる意味も有りました。正しい門から入れば、必ず礼服は渡されるのですから、この人は、こっそり別の門から忍びこんだと考えられるのでした。
イエスの教えを思い出すと、神の国には、イエスという門を通らなければ入れないということが有ります。また、イエスの義を着せられた者でなければ、聖徒として、天の国に入ることはできません。正しい門を通り、正しい服を着ていなければ、天の国に入ることはできないのです。
この部分も、聞いているパリサイ人や祭司長たちには、雰囲気がよく伝わったと思われます。ユダヤ人の伝統的な物語では、不敬虔で悪いエサウが、自分の上着を羽織って、天国で義人たちの間に紛れ込んで宴会に着座するだろうというものが有るそうです。しかし、聖なる神が彼を引きずり出して、外に追い出すことになるだろうという話だそうです。
そんな伝統的な物語を知っているパリサイひとたちでしたが、彼らは、この例話のエサウのように、神の用意したイエスによる義ではなく、自分達の義、律法と伝統を守ることにおける義という、別の外套をまとっているようなひとたちでした。(門、礼服、外套の聖書的イメージについては、ヨハネ10:9、イザヤ61:10、ガラテヤ3:27等を参照。)
宴会に忍び込んだこの人物は、王に尋ねられて、何の弁解もできませんでした。謙遜に、王に謝罪して、赦しを請えば、礼服を与えられたかもしれませんが、彼はただ黙っているだけでした。
13節 彼は、相応しくない人物として、追い出されました。王が指示を与えたしもべを表す語は、執事と訳せるもので、神の国の状況に合わせて考えると、天使なのではないかという理解を示す注解が有ります。手足を縛るのは、追い出す時に逃げられないように、外の闇から戻って来ないようにということだと考えられます。彼には、それ以上、神の栄光と恵みが届く場所にいてはならないということです。天の国の恵みを受けるには、招きに応じるだけでなく、相応しい信仰と歩みが必要になるのです。
14節 王、もしくは、イエスの言葉と考えられる、例話を締めくくる言葉です。歴代の預言者たちも、バプテスマのヨハネも、イエスと弟子たちも、多くの人たちに神の国の福音を伝え、招きました。しかし、最終的に選ばれた者と言えるようになるには、その招きに応じることだけでなく、条件を受け入れ、同意しなければならないのです。選ばれるというのは、個人個人の応答の結果です。
まとめ)
悪い小作人の例話との共通点と、更に発展した内容とが示されている例話でした。共通しているのは、神は愛と忍耐をもって全てを用意してくださったということと、神に敵意を持つ者は滅ぼされるということです。
発展の部分に目を留めて、三つの要点を挙げてみたいと思います。
1.神の国は多くの人々に開かれている
最初に招待を受けたのは、貴族たちであったかもしれません。しかし、後になって、王は通りの人たちを良い人も悪い人も招くように指示しました。イエス・キリストの救いの福音は、私たち異邦人を含む全ての人々に開かれています。
2.神の国は、イエス・キリストを中心とした領域である
それが、王子の婚宴という設定の示すところです。婚宴の中心人物は、結婚をする王子です。同様に、神の国は、み子イエスに目を留め、信頼するべき領域です。そこに入るためには、イエスという門を通り、イエスに与えられた罪の赦しと義の頃もをまとわなければなりません。その意味でも、イエスを中心とした領域と言えます。
3.神の国は、神による検分を伴う
例話の中では、王が客を見にきたように、神の国でも、神の審判が有ります。先の例話では、イエスは、「取税人や遊女たちが、神の国に入っている。」と進行形に語られました。私たちの教会での歩みも、神の国の歩みと言えます。神が私たちをみそなわし、審判されることも進行形と考えることもできそうです。イエス・キリストの義以外の霊的な外套を着て信仰を持つような、パリサイ人たちや異端の人たちのようにならないように気を付ける必要が有ります。