礼拝音声

聖書箇所:マタイ21:33-46
説教題:悪い小作人の例話

導入)
  直前の二人の息子の例話で、イエスは、バプテスマのヨハネは神の遣わした預言者であることを示しました。また、ヨハネが宣べ伝えた義の道の中心は、悔い改めであることを確認しました。悔い改めることをしなかった祭司長たちよりも、彼らが見下していた取税人や遊女が先に神の国に入っていると言って、彼らを叱られました。イエスは続けて悪い小作人の例話を彼らに語ります。

本論)
33節 導入の記述は、イザヤ5:1-2を思い起させる内容になっています。神が愛をこめて民を整えようとしたことが表れています。この例話のように、地主が土地を貸して遠くに行くというのは、当時よく有ったことです。
34節 収穫の時には、小作人は借地料を払いました。収穫の75%が地主のものとなり、小作人は25%が取り分でした。収穫と訳された語は、利益という意味も有りますから、作物ではなく金銀で支払われることも有ったと思われます。地主はしもべたちを送ったのは、支払いが作物であっても金銀であっても、それなりに大きいものになるからだったかもしれません。
35節 ここで例話は思わぬ展開になります。小作人は借地料を払わず、しもべたちを打ち叩いたり殺したりしてしまいました。この部分は、イスラエル人の歴史の描写として見ることができます。しもべたちは、神が遣わした預言者たちです。イザヤは殺されたと考えられており、エレミヤは叩かれたり水の無い井戸に放り込まれたりしています。
36節 土地の主人がしもべを更に送りました。イスラエルの歴史でも、王制初期からサムエルが送られ、捕囚前までイザヤやエレミヤが送られ、帰還後もゼカリヤやマラキなどが送られました。神は、いつもご自身の民に愛を示し、悔い改めの機会を与えて来られました。
37節 息子は土地の主人と同じ権限が有ると考えられます。父なる神がみ子イエスをお遣わしになったことを表しています。旧約の預言通りに来られた救い主イエスを、人々が受け入れることが期待されました。
38節 悪い小作人たちの言葉は、私たちには非現実的の思われます。これは、当時の民法に基づいたものでした。誰かが土地を残して死んだ場合、相続者がその土地の権利を宣言しなければ、他の人が権利を宣言すると、その人の土地になったということです。小作人たちは、地主が亡くなったと考えたようです。ですから、相続人である息子を殺してしまえば、自分たちが権利の宣言をすることによって、ぶどう園を自分のものにできると思ったわけです。
39節 ぶどう園の外に追い出すのは、死体がみつかった土地の評価が下がるからだと考えられます。また、死体はモーセの律法によれば汚れたものでした。この数日後、イエスはエイルサレムの外で十字架にかけられました。市街が汚れないためであり、汚れで過ぎ越しの祭りが祝えないことを避けるためでした。イエスは、祭司長たちに、彼らが何をしようとしているか知っていることを示されたことになります。
40節 聴衆をその教えと関連付けるために質問をするのは、ラビのよく用いる方法でした。
41節 ぶどう園の主人が悪い小作人たちを情け容赦なく殺すだろうという祭司長たちの回答は、過激なもののように思えるかもしれません。実際に、当時の地主の中には、私兵を雇っていて、問題を起こす小作人を暗殺するようなことが有ったということです。
  イエスにこのように回答してことによって、祭司長たちは、自分たちに下される刑罰の宣告を自ら行ったことになります。(2サムエル12:1-15の事例参照)
42節 イエスはここで詩編118:22-23を引用されました。岩や石は神のシンボルです。この石が、イエスのことであることがわかります。家作りが見捨てた石という表現の、見捨てるという語は、ヘブル語では「見下す」という意味が有り、ギリシャ語では、「調査して不適格であるとみなす」という意味が有ります。パリサイ人やサドカイ人達が、イエスをメシアと認めないことを、預言している節になります。しかし、この石が礎の石になったというのです。多くの聖書学者は、むしろ英語では a capstone と訳される要の石、冠石と考えます。その石をはめることによって、建物が完成するのです。詩編では、神殿の完成を念頭に置いて書かれていると考えられています。イエスの引用においては、イエスが旧約の犠牲の捧げものを完成されて、人類の救いの業を完成させることを指します。このような、メシア預言の箇所を、イエスご自身が引用しているのです。実際にイエスは数日後に十字架にかかることになっていました。
  詩編に注目すると、更に驚くべきことが預言されています。24節には、「これは主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」と記されています。この日とは、建物が完成した日、すなわち、救いが完成したイエスのよみがえりの日です。これは神の計画通りになされたのであって、偶然ではないのです。ですから、私たちは、毎週日曜日にイエスの復活を喜び、年に一度復活祭を記念するのです。
43節 祭司長たちが言った、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すという言葉のように、神の国は彼らから取り去られ、神の国の実を結ぶ人たちに与えられるのだという宣告がここでなされています。
44節 ここでは、神なるイエスを拒絶した結果が示されています。石の上に落ちる者は、イエスを拒絶する者と考えられます。最終的には、石がその上に落ちて砕くように、イエスを拒絶する者には、神の裁きが下ります。
45節、46節 イエスの「あなたがたに言います」という呼びかけと解説によって、祭司長やパリサイ人たちは、二人の息子の例話や、悪い小作人の例話が、自分たちを指して語れたことを理解しました。彼らは相当怒りを感じたであろうと思いますが、彼らは、群衆を恐れたために、イエスを掴めることはできませんでした。彼らは、神を恐れる人たちではなく、人を恐れる人たちだったのです。


まとめ)
 様々な要素が重なっている聖書箇所ですが、今回は次の三つのポイントを挙げておきます。

1.神に全てを明け渡すこと
  祭司長たちやパリサイ人たちは、神のみ子イエスさえも自分たちの思うままに動かそうとしました。それが罪の根です。このような態度で、アダムとエバは堕落しました。神に従わないで、自分の人生の主になろうとすることが罪の根源です。反対に、私たちは、神に明け渡し、自分の思いを推し進めるのではなく、神の御心を求めて生きるのです。そのような態度なくして、私たちは神の国に入ることはできません。また、神に喜ばれる実を結んで生きることはできません。

2.イエスは神の救いのご計画を完遂する強い意思を示された
  詩編118編を引用された時、イエスは、パリサイ人たちが自分に何をするか、自分の身に何が起きるかをご存知でした。同時に、イエスは自分が要石になること、神の救いの計画の完成させることを知っていました。神は、このようにして、私たちの救いのために、驚くべきこをとしてくださったのです。神に属する人々は、イエスの受難、死、よみがえるを喜ぶことができるのです。イエスの死は、決して偶然ではないのです。

3.イエスは裁く権威を持っておられる
  イエスの44節の説明で、祭司長やパリサイ人たちが悔い改めなければ、裁かれ、罰せられることが宣べられています。イエスは主なのです。彼らにも悔い改めの機会は与えられていました。使徒行伝には、祭司たちが信仰を持ったという記録が有りますが、多くの者は、イエスを拒絶したままであったようです。彼らは、神よりも人を恐れるような人たちでした。私たちは、裁き主であるイエスを悔い改めのうちに受け入れた者たちです。私たちには、最後の審判は喜びの日となるのです