礼拝音声
聖書箇所: 2テサロニケ 3:6-15
説教題: キリストの教えに留まるために
導入)
パウロは最後に特定の問題についての指示を出します。その内容を確認しながら、より一般的な原則を読み取っていきます。
本論)
6節 イエス・キリストの御名によって命じる強い指示です。主節は、「離れていなさい」ということです。何故そんなに強い指示になったのでしょうか。それは、締まりのない歩みをする信徒たちが、「私たちから受けた言い伝えに従わない」からです。言い伝えというのは、イエスが使徒たちに伝えた神の国の福音と原則です。そのような大事な原則に従わないのですから、強い指示が出るのは当然のことです。その中には、第一の手紙で出された、落ち着いた生活をして、自分の手で働きなさいという指示も含まれているでしょう。(4:11参照)
この節が示している中心的な原則は、イエスの教えに従わなければならないということになります。
7節-10節 ここでは、パウロと同労者が示した模範ということに重点が有ります。パウロは、テサロニケの信徒がどのようにパウロ達を見習う必要が有るかを知っていると言っています。見習うと言う語は、師の行動を真似するという意味が有ります。まさしくパウロとテサロニケの信徒の関係です。
パウロ達の模範と、それに従わない者との対比が述べられます。パウロは、使徒であるにも関わらず、一生懸命仕事をして自活していました。従わない者たちは、働きもせず、家々を渡り歩き、食事をたかっていました。神は愛と秩序の神ですから、そんな生活がイエスの教えに従った生活なはずがありません。信徒たちは、パウロの模範に従うべきでした。
9節で、パウロは、彼の模範が、一般信徒としての模範であり、使徒としての模範ではないことを断っています。権利と訳された語は、権威、権限という意味が有ります。使徒には、生活のための報酬を受ける、もしくは要求する権威、権限が有りました。そのことは、イエスが12弟子を宣教に派遣した時の言葉(マタイ10 :9-11)パウロの他の書簡(1テモテ5:17等)にも示されています。
10節では、その模範に基づいた指示が、パウロがテサロニケにいた時にもされていたことが述べられています。彼らにそれを思いおこさせようとしています。
11-12節 パウロが模範の話をしなければならなかった理由は、締まりのない生活をしている信徒たちの問題が彼に伝わってきたからでした。ここで、パウロはもう一度、締まりのない信徒たちに、おちついて仕事をして自活するように命じています。
13節-15節 パウロはここで、忠実に歩んでいる信徒たちに指示を出しています。たゆむことなく善を行えというのです。善というのは、イエスの教えに従って生きることです。たゆむという語は、すっかり気力を失う、という意味が有ります。締まりのない信徒の行動に煩わされて、力を落としてはいけないということです。私たちも、気落ちすることなく、継続的にイエスの教えに従って生活しなければなりません。
更に、忠実に歩んでいる信徒たちに、この手紙のパウロの指示に従わない締まりのない信徒たちがいれば、交際しないようにと指示しています。交際するという語は、親しくする、仲間だと認識される、という意味が有ります。そのような交流をしないようにということです。そうする目的は、彼らが恥じ入るようにということです。恥じ入るようにという語は、自分を吟味して恥ずかしく思うという内容の語です。彼らにそういう機会を与えることが、交際しないことの目的です。
そのような処置をするにあたっての注意は、敵としてみなすのではなく、仲間として戒めなさいというものです。目的が、彼らに自省を促すことなので、愛と気遣いをもって扱わなければならないのです。
まとめ)
原文を確認すると、パウロは、6節と12節で、「私たちの主」という表現をしています。イエスとその教えが、信徒の共通の土台だということを示しています。そのイエスの教えに留まり続けることが、今回の朗読箇所の中心原則と言えます。ここに示されている、イエスの教えに留まるための行動は、次のようなものが挙げられます。
1)締まりのない信徒と距離を取ることによって
パウロは、このことについて、繰り返し強い指示をしています。
2)イエスと使徒たちの模範に倣うことによって
彼らの模範は、今でも聖書の中に記されています。
3)努力して善を行い続けることによって
気落ちしないためにも、イエスの教えを確認し続け、天国の希望を持ち続け、
イエスの教えに従い続けることです。
4)愛に基づいて行動することによって
互いに愛し合うことは、イエスが最後の晩餐で新しい戒めとして弟子たちに指示したことです。締まりのない信徒を戒めるような場面でも、愛に基づいて行動する必要が有ります。