聖書箇所:ヨハネ13章1節~11節
1節 イエスはその使命である十字架にかかり、救いを成就し、復活して昇天することが間近であることを知っていた。そこで、ご自身の愛をはっきりお示しになった。「残るところなく」と訳された語は、「最後まで」という語であるが、最高潮まで、限界までという意味でここでは用いられている。ユダヤ的表現、熟語をギリシャ語に置き換えたものと考える学者もいる。その愛の示し方の一部が、この後に記されている。
2節 どのようにしてであるかは不明だが、悪魔はイスカリオテのユダの心に、イエスを裏切る思いを入れていた。この記述は、続くイエスの愛の発露と、ユダの行動の両方の記述への導入となる。
3節 イエスが父なる神に万物を委ねられていることを含めて、ご自身が神の御子であること、間も無く天に昇ることを認識しているということの確認。イエスの御業は、どれも偶然ではなく、神の御心に従ったものである。天の昇ることの記述は、1節の再確認の面も有る。
4節 イエスが夕食の途中に立ち上がった理由を、ルカは、弟子たちの中で誰が一番偉大であるかという議論が有ったからだと説明している。手ぬぐいを腰にまとうのは、しもべの姿である。
5節 来賓の足を洗うのは、しもべや奴隷の仕事であった。誰が自分達の中で一番偉大であるかを論じていた弟子たちの、考え方を改めさせ、偉大になりたい者は仕える者になりなさいという、これまでに教えて来たことを実践して見せるものであった。
6節 他の弟子たちは、当惑しながらも、イエスに足を洗っていただいた。ペテロは、弟子のリーダー的立場であったので、常識ではありえないイエスの行動を止めようとして、口を挟んだのかもしれない。そうすることで、自分をより良い弟子と見てもらおうという気持ちが有ったかもしれない。いずれにしても、ペテロは、イエスの心を理解していなかったと考えられる。
7節 わたしがしていること、及び、あなた、という代名詞は、強意の用法で、ペテロへの叱責の意味が含意されるという説明が有る。「あとで」わかるようになるという表現は、「このあと直ぐ」という意味で理解される。実際に、イエスは12節以降で、ご自身がされたことの説明をされている。
8節 イエスが、その行動の意味はこのあと直ぐわかるようになると言ったにもかかわらず、ペテロはイエスに足を洗われることを拒んだ。イエスへの尊敬の念の為せる業かもしれないが、ペテロに過剰な自信が有ることがうかがえる。
彼の言葉は、謙遜の現れのように見えたが、実際にはイエスの御心を受け入れないものであった。私たちは、へりくだって人の姿を取られたイエスの謙卑を受け入れ、感謝し、信じる以外に、神の御業に参与して救われる方法はない。だから、イエスは、もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もないと明言されたのだ。
9節 ペテロには、イエスの思いは理解できていなかったかもしれないが、イエスにあってこそ意味の有る人生を送る自分という関係に賭け、委ねていた。足を洗っていただくことで関係が確立するのであれば、更に進んだ関係になるために、全身を洗っていただこうと考えたと思われる。あるいは、他の弟子たちより程度の高い献身の思いを持っているという姿勢を示そうとしたのかもしれない。
10節 ペテロは、霊的、道徳的汚れを清められるという面からことを理解したのかもしれない。イエスは比喩的に回答する。普段の生活においても、水浴した者は体全体がきよくなっている。しかし、外に出歩けば、足は汚れる。だから、帰宅したり他の家を訪問する時には足を洗うことが必要になる。霊的な意味合いで考えれば、ペテロも他の弟子たちも、イエスに従うことにして、霊的な歩みの全てが変えられた。だから、日々の歩みにおける罪の影響を主に洗いきよめられるだけで十分である。
11節 10節の説明の終わりに、「みながそうではありません。」と言われたことの解説。みながそうでないということは、完全な献身の思いでイエスに従っているのではない弟子がいるということ。その弟子は、主に足を洗っていただく意味が無い。しかし、イエスは愛を示して、その弟子の足も洗われた。イエスは、イスカリオテのユダが裏切る心の思いを知っておられた。
まとめ
・2節の記述から、思いの中に何を入れ、留めさせるかに注意しなければならないことがわかる。悪魔は、私たちの思い、思考の領域に、神の御心に適わない思い、反逆の思いを入れて迷い出させようとする。心を見張ることを、聖書は求めている。(箴言4:23、マタイ12:34-35参照)否定的な思いは、聖書の言葉で打ち消すことが必要である。
・イエスの生涯は、父なる神の御心、ご計画に沿ったものであって、人間的運命的偶然によるものではない。
・イエスご自身が、弟子たちの間で偉大になりたい者は、仕える者でなければならないことを、十字架にかかる直前に、実際の模範を示して再確認されたことに留意するべきである。
・イエスを救い主として信じることが、神の業である。イエスを信じた者は、この世の歩みにおいて犯す罪を悔い改め、主のきよめを仰ぎつつ生きる。