礼拝音声
聖書箇所:詩編19:1-14
説教題:私たちの救いのための啓示
導入)
副題は、指揮者のために。ダビデの賛歌、となっています。幕屋や神殿での礼拝のためにダビデが書いた詩編だと考えられます。礼拝でこの詩編が読まれる、もしくは歌われることによって、ダビデが礼拝者に思い起させようとし、神への賛美としようとしたことは何なのかを確認していきましょう。
本論)
1)神は森羅万象を通してご自身を啓示している(1-6節)
天も大空という同義語の繰り返しを用いて、森羅万象は神の栄光と偉大さを強調して現わしています。また、語り告げる、告げ知らせるという同義語の繰り返しによる強調も見られます。これらの動作は、継続的動作の分詞が用いられているということです。
神の啓示の継続性が、2節で繰り返され、強調されています。知識を示すというのは、森羅万象を創造した、創造主なる神がいることを示すということです。それは、3節に示されるように、人間の言語や音声による伝達ではありません。
森羅万象に、創造者なる神を見いだすことは、地球上のどこにいてもできることです。ですから、全地に響き渡り、地の果てまで届いたとダビデが述べます。そのことを表す代表的なものとして、太陽が取り上げられています。太陽は、状況や程度の差こをあれ、地球上のどこからでも視認することができます。幕屋とか部屋という表現が有りますが、それは、神が太陽を相応しい位置と軌道の上に置かれたことと考えられます。花婿と勇士の例えが用いられています。花婿は結婚式において、花嫁と共に最も誉の高い立場です。勇士は、チャンピオンと考えられる言葉で、競技場で優勝者としてウイニングランをする様子を想像していただければ良いと思います。優勝者は、そのようにして誉と栄光を体現するのです。同様に、太陽は、その創造者である神の栄光と誉を示して運行するのです。6節は、地上のどこにでも太陽の影響が有ることを再確認しています。ですから、パウロがローマ1:20 や、10:18 で示しているように、人間は、創造者の存在を知らなかったという言い訳はできないと、ダビデは述べているのです。
2)神は聖書を通してご自身を啓示している(7節‐10節)
人間の無知蒙昧のために、自然の啓示では不十分です。ですから、太陽神を崇拝するようなことも起きてしまうのです。それで、神は聖書という特別啓示を与えてくださいました。ダビデの時代には、まだモーセ五書しかなかったのではないかと考える立場も有りますが、ダビデはそこら十分に神のみ心を読み取っていたように思われます。
ダビデは、聖書、神の言葉の性質と、従う者が得る恩恵を六つ列挙します。主の〇〇と表現されているものは、聖書の教えと考えられる内容です。その性質と恩恵を一つずつ確認していみましょう。
7節 聖書の教えは完全(健全、欠けが無いことを含意)で、神の創造のみ心に従って生きるように導くので、魂を生き返られることができます。証と訳された語は、明文化された掟の条文を含意し、示されている掟の理由がしめされています。それを聞くことによって、わきまえのない者(同時に、心の開かれた者も含意)も知恵を得て賢くなります。
8節 戒めは、立ち振る舞いに関わる指示と言う意味が有ります。それは正しく、それに従えば自分の行動を誤ることがなく、他人も自分に害を及ぼさないので、それは喜ばしいものとなります。神の仰せは、悪意が含まれておらず、むしろ、正しい知識や悟りを与えます。目は心に通じる窓だと考えられていました。明るくするというのは、正しい神による知識と知恵が届くことを示しています。
9節 主への恐れという語感は妙に感じるかもしれません。原義も恐怖というものです。しかし、ここでは、聖書からもたらされる神への畏敬の念、従順の心という意味を読み取ることになります。そのような態度を人間にもたらす神の教えの意義は、永遠に変わらないのです。さばきは、事件に判定を下す、量刑を決めるという感覚です。神は、その時にも判断の上でも道徳的にも正しいもので、神と和解した者には最終的な守りとなります。
このように、聖書は、私たちに神の性質を教え、神の戒めを守ることは、私たちの人生に恩恵をもたらすのです。それで、10節では、聖書の啓示はハチミツや純金のように喜ばしく、好ましいものだと締めくくっています。
3)神は聖書を通して救いの道を啓示している(11節‐13節)
11節は、前の内容のまとめと、次のまとまりへの橋渡しになっています。聖書を読むことで、報いが大きいことを再確認しています。ここで戒めと訳された語は、啓蒙された、光を照らされたという意味がいが有ります。神の啓示によって啓蒙され、その教えを守ることの報いが大きいのは、当然のことではないでしょうか。その大きな報いの究極的な部分にダビデは触れます。
12節 人は自分の罪を自覚できないことがあります。一般常識では当たり前だと思える行動様式でも、神の目からは罪となるものも有るのです。それで、ダビデは、それを教え諭してくださるようにと祈っています。そこにも神の啓示が必要なのです。そして、罪が明確になってもならなくても、悔い改めの告白をし、神のみ心に同意することを告白するのです。
13節 「傲慢の罪」から守ってくださいという記述が有ります。原義は、反逆という意味が有ります。神のみ心と愛を拒絶することは、自分を神の上に置く傲慢な態度だからです。神の恵みと守りが有れば、その反逆、大きな罪を免れてきよくなれるのです。きよいという語は、罪の責めが無いことを表します。辞典によれば、略奪されて価値の有る物がすっかりなくなった町の様子を表す語感も有るということです。
神に悔い改めの告白をして、罪の責めから解放されることが救いです。聖書は、私たちがそのような救いに導く内容と力が有るのです。
4)神の啓示への我々の応答(14節)
ダビデは、礼拝者がどように神の啓示や聖書に応答するべきかをも伝えようとしているようです。
‐1 聖書の言葉を暗唱し、告白し、瞑想することです。
→ それが、神との交流となり、また、神への賛美と礼拝になります。
‐2 神とのそのような交流、礼拝が、神にとって好ましく、喜ばしいものであることを心に留めること。
→ 神は、私たちに服従を求め、それによって疲弊するのを見て楽しむ暴君のような方ではありません。
―3 神が私たちの人生の基盤であることを心に留めること。
→ 神が私たちを守られる方であり、救ってくださる方であること心に留めましょう。
まとめ)
ダビデが詩編19編を通して礼拝者たちに注意させようとしたことを、簡単に振り返ってみます。
1)神は森羅万象を通してご自身を啓示している(1-6節)
森羅万象に、神の栄光を見いだして、日々神を賛美して生活しましょう。
2)神は聖書を通してご自身を啓示している(7節‐10節)
人間の知性と知恵で神のみ心をわきまえ知ることは不可能です。神が、聖書という特別啓示をくださったことを感謝し、聖書を読みましょう。神の悟りが与えられます。
3)神は聖書を通して救いの道を啓示している(11節‐13節)
聖書に示された、神の救いの計画を心に留め、覚えておきましょう。聖書は、何が罪であるか、どのように救われるべきかを示しています。イエス・キリストによって、神は私たちを非難されるところのない者としてくださいます。
4)神の啓示への我々の応答(14節)
聖書の言葉、教えを、暗唱し、告白し、瞑想しましょう。神が私たちの命の根源であり、人生の基盤であり、私たちの魂を永遠に守られる方であることを覚えましょう。そのような応答が、聖霊の交わりとなるのです。